今日の「こころに新・呼吸」でお読みしているお便り、最初は「そんなこと気にしてたら生きてけないよ」と思ってしまいました。
でも、「すっごく大切なことをご質問くださって、私もすごく考えてしまいました」と言う安保ふみ江からの声のお返事を聴きながら、普段何気なくしていることに、あえて立ち止まって、真剣に考えてみることって大切なことなのかもしれないと気付かされました。
このようなお便りです。
お風呂に入っていたらナメクジがいて、別に悪さをするわけではないので放っておこうと思ったのですが、体を洗っているうちにお湯に流されて下水へと消えていってしまいました。
無用な殺生をしてしまった・・・
そういえば、昼間も蟻を一匹、蚊を一匹殺してしまった。
別にわたしに危害を加えたわけでもないのに・・・
「殺生」というのは仏教の概念でしょうか?
「殺生」=「罪」ですよね。
キリスト教ではこのような概念があるのか気になりました。
あくまでも人に限定されていたような気がします。
虫や草にも生命があり大切にしないといけないといったような教えがあるのでしょうか?
皆さまはどう思いますか?
番組のご感想など、ぜひコメントをお寄せください。
小さな生き物、草花にも魂があって生きているのですから、可愛がりましょうね。
むやみに殺したりしてはいけません。 でも、蝿や蚊やごきぶりなどは、そのままにしてはおけませんよね。 普通に生活していく常識の範囲内で良いと…私は思います。(^^)
先日、黙想の家の草むしりのボランティアをしました。雑草、よく見ると美しい!草むしり、ちょっと心が痛みました。そういう日常の小さな事の中に聖霊の恵みがあり、定型の存在ではなくても、視点を変えれば、溢れる程の愛の充満を感じ、どんなに虐げられても否定出来ない神様の被造物の素晴らしさってあるよなぁ…と。
私は神様中心で考えたほうがいいような気がします。
お肉や野菜は日々の糧としていただきます。無用な殺生はダメでしょう。
キリストも意味のある死だし、死を選んだのですよね。
人以外も仏教的に考えれば輪廻転生の後、人に生まれ変わり
キリストの福音に出会えるわけです。
何れにしても神様の愛は感じるわけです。
昔から気になっていたことを取り上げてくださって、うれしかったです。
キリスト教の教えが人間中心で、他の生き物に優しくなくて、いちいち動物を殺して生け贄にしたりする話も本当に嫌で、もともと遊牧民の人たちの分化だから日本人には合わない部分があるのだと感じていました。生きとし生けるものの命を尊び、殺生を嫌うというのは日本人の昔からの感じ方です。それは間違っていないと思います。日本人には日本人のためのキリスト教の解釈があって良いのではないかと思います。西洋でも、聖フランシスコのように、すべての生き物を神の被造物として分け隔てなく愛し、魚や小鳥にまで説教したという優しい先生もいらっしゃるわけです。