人と分かち合うことと自分の十字架を負うこと

今回の「FEBC HANGOUT」では、リスナーのBさんからのお便りをご紹介。

FEBCのスタッフの方が、このような本音を語ってくださることに、不思議な安心感を覚えました。
特に、「分かち合うこと」についてのお話には、とても共感しました。
今、自分がまさに、分かち合うことの難しさを感じているからです。

そう書き始めてくださったお便り。
Bさんが負っている、本人にしかわからない痛み。
人に打ち明けることのできない、
もし打ち明けても理解していただくのが難しいであろう、「自分の十字架」。

そのことを「FEBC HANGOUT」に分かち合ってくださったお便りをとおして、
「人と分かち合う」こと、そして「自分の十字架を負う」ことを
見つめたいと思います。

番組を聴く>>

F1604_hang160405_01-90x300この番組のご感想など、皆さまのお声をぜひコメントでお寄せください。
また、番組パーソナリティー・長倉へのお便りもお待ちしています。
いただいたお便りは番組でご紹介させていただくかもしれません。
宛先はvoice@febcjp.comです。

“人と分かち合うことと自分の十字架を負うこと” への7件の返信

  1. シュート

    今回の長倉さんの番組のテーマは、分かちあいとそれぞれの十字架、だったのですが、偶然ではないと思うのですが、みんなの声で「分かちあい」に乗じて、教会員の内輪で個人的事情が暴露されている、というテーマが反響を呼んでいる事を考えました。
    番組を聞いていて、残念ながら分かちあいには、どうしても限界や、踏み入れてはいけないもの、個人的な事情などがある。ではどうすればいいのか?と感じました。
    みんなの声の投稿を見ていると、長倉さんのように、その辺りを理解されている教会員の方は少数派のようで、教会内でも日本的なムラ社会が出来てしまったケースがあるように感じます。仏教や神道の信者同士も同じでしょうが。
    過剰に個人の心、事情に踏み入れる事をしないでイエス様に委ねる事が、本来の分かちあいと思うのですが…。

  2. JQ2NJP クマちゃん

    “人と分かち合うことと自分の十字架を負うこと” に対する意見

    実は、先週の聖書研究祈祷会で、この問題に私も直面しました。私以外の参加者は、牧師先生をはじめ、すべて先輩でした。聖書個所はコロサイ書の一章二章でした。それを呼んで牧師先生が、いつものように、「何を感じたり、何を思ったり、何を学びましたか?」と質問したので、私は私の疑問や考えを話しました。少々時間を長引かせてしまった感は、私にもありましたが、それ以上に、私の疑問や考えが、私を動かしていました。

    ある姉妹が、「あなただけの聖書研究祈祷会ではない。」とクレームをつけました。また、牧師先生も、「あなたは洗礼を受けているのに、聖書が信じれないのですか?」とおっしゃいました。

    私は、もし聖書を信じていなければ、何を言われても、「ああ、あなたの考えはそうなんですね。それだとしたら、お説ごもっとも!」と言って、無視できます。しかし、洗礼も受け、イエス様や神様を信じている今は、安心感を持って、聖書にいろいろと疑問がわいてくるのです。それは、より一層聖書を自分の血とし、肉としたいがために、先輩クリスチャンや牧師先生に、失礼は承知の上、かなり過激な表現で、質問します。この安心感を持った質問ができる時間が、私への恵みだとも感じています。

    しかし、一般的なクリスチャンは、どうも、私のような行動はしないと、厳しく糾弾されました。だから、「分かち合い」は、とても困難なことだと思います。そして、それに比べれば、自分の十字架を担ぐことは、人間同士の分かち合いに比べたら、自分の心の中で完結するので、容易なことと思います。しかし、感情論では、なかなか担ぐことはできないのです。冷静に考えて、他人がからんでくる「分かち合い」より、自分の十字架を担ぐことのほうが、行動論としては、簡単だと思います。

    事実無実の罪で、死刑になる人のほうが、従容として、死に向かうそうです。私も、自分の十字架を担いで、従容として、刑場に歩む罪人でありたいと、願っています。(表現が過激なのは、ご容赦ください。)

  3. 直島敏久

    40歳で洗礼を受けて今、66歳色々な教派、教会に行きいろんなキリスト者と交わりを持ちましたががっかりする事ばかりです。本物のあった方は二人だけでした、時々Febc を聞いて居ます、でも楽しくありません。今腎臓ガンと心臓病で残りの時はあまりありません、生きたキリストに会いたいものですね

    • ごんべぇ~

      なんと申し上げていいのか、言葉が見つかりません。
      直島敏久さん、あなたのために、お祈りさせてください(祈)

      晴佐久神父様にお会いできると良いですね!

    • 匿名

      こんにちは。私自身と同様な年齢と思いコメントします。
      人と分かち合うことと自分の十字架を負うことは別々の問題と思います。
      事故によってこんな状況を招いてしまいましたが、
      代わりにこのような問題を背負って下さるイエス様の存在を知れて良かったと思います。最近では感謝の心の大切さを思わされます。
      まもなく聖書に記された38年がやってくるので期待しています。
      たとえ癒しを戴いても何が出来るのかという思いもします。
      歳を思うと、この感を強くします。
      全てを善にする神にお任せしようと思います。
      毎度、愚痴を聞いてくださる日本FEBCの皆様には感謝します。

  4. ごんべぇ~

    Bさんの仰るように・・・
    自分の十字架を人と分かち合うことは、難しいでしょうね!
    苦しくても自分に与えられた十字架は、
    神様が、私を愛するがゆえの恩寵だと思って、喜んで耐え忍びます。
    ~のお陰で、他人の痛みが分かる、労わりの心、慈しみの心、祈る心が備わったように思います。
    それと、
    それぞれ与えられた十字架は違っても、分かってもらえなくても・・・
    誰かに話す事によって、苦しみが半分に、もしくは、倍になってしまうこともあるかもしれませんね(*_*; そこは、相手を選んで話します。
    自分の十字架を自分だけで背負おうと思うとますます苦しくなってしまうので、自分の弱さを、ありのままに打ち明けて、他人に助け、励ましてもらえたら、荷は軽くなるんじゃないかなぁ~~~(#^.^#)
    ~と云うことで、
    時には、分かち合いも嫌になる事もありますが・・・
    分かち合うことによって、自分のためにも他人のためにも祈ってもらえたら嬉しいです。
    もちろん、人間だから、勘違いや思い込み、その他もろもろありますが・・・そこは、とことん話し合えたら和解に繋がるかなぁ~~~(*^_^*)
    嫌、分かってもらえないかも!?
    嫌な思いされたからと、聞こうとしない人が、一番最悪(;一_一)
    そういう時は、神様におゆだねするということで、一件落着
    あとあと、うじうじ、ひきずりたくないですよね(笑)
    マリア様のように、心におさめましょう。
    これが、なかなか(汗)
    すみません、思うがままにつらつらと書いてしまいました^_^;

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