自分には何もないことに…

洗礼を受けても何も変わらない
祈っても何も変わらない
聖書に書かれているような奇跡は自分には何も起こらない

今日の「恵子の郵便ポスト」のお便りのかたのこの嘆きは、私たちの多くが心に抱いたことのある嘆き・・・
いえ、もしかすると今もいつも、本当は心の奥底にある思いなのかもしれません。

それを真正面から訴えてこられたこのかたのお便り、その中の
「誰でも深みに降りていけば、自分には何もないことに気がつくのではないでしょうか。」
というこの言葉に、自分自身のことを言い当てられたようで、ドキッとします。

本当は何もない自分。
信仰すらない自分。
それに気づくのが恐ろしくて、心の奥底の嘆きも押し殺してしまう。

でも、そこに、既に降りてくださったかたがおられる。
それなら、私は今どうしたらいいのでしょう・・・。

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“自分には何もないことに…” への7件の返信

  1. シュート

    正直、番組のこの回聴いた時は、ショックと共に、共感する心境でした。
    信仰の対象がキリスト教以外でも仏教や神道、他の宗教であっても、現実の生活の苦しみ、辛さに向き合うための支えとして信仰する、と考えています。なので、宗教的な考え方は備わっても、その人の本質は変わらない、と思っています。
    以前、家族で仏教や神道の集まりに参加した時、まともな人だけではなく、一癖も二癖もありそうな人が散見された覚えがあり、これはキリスト教でも同じと思っています。
    それでも、信じるのは?と考えたら、人間として生きたい、という切望と、現時点では思っています。でもまだ漠然としているので、洗礼…はまだわからない、というのが正直な心境です。

  2. のりぴい

    こんにちは。皆さん洗礼を受けると何か素晴らしい事があると期待し過ぎではないでしょうか。
    私も1978年に洗礼をうけましたが、何ら変わることは無かったです。
    洗礼は生き方のひとつなのかもしれません。
    人間、楽しいことが多いに超したことは無いです。
    ひとつ良い言葉を思い出しました。「良いことは神様のおかげ、悪いことは悪魔のせい。」
    キリスト教でも大きい組織を嫌い単立の教会の牧師となり
    私のような独立歩行不可の人間に対しても一緒に祈り会に行ったり、いろいろ面倒を見てくれました。
    今やどんな障害を持っても元気に生きる姿を見てもらうことは出来ます。
    こんな姿を見てもらうことで何かキリスト教の役に立てればと思います。

    • ゆめちゃん

      信仰はむつかしいというのが正直な感想です。

      神様のもとへ来た人たちは心や体や人間関係に病んだところを抱えていました。人は生きている現在の大変さを助けてほしいと願って、イエスにすがる人が多いのではないでしょうか。それを信じても何も変わりませんと言われると、信仰とは何ぞや。復活のイエスとは何ぞやとなります。

      ジレンマの矛先は自分に向かえば、信仰が足りないとなりますし、教会に向かえば立派な教義だけを並べているだけではないかとなります。ましてや、信じて洗礼を受けても死んで神様のもとへ行ける保証はない(予定説)とすると、死んだ後の安心すらありません。

  3. otori michiko

    求道者です。教会の聖書クラスに通い、月1回ほどですが礼拝に通わせてもらっている教会の牧師先生から、いつか洗礼を受けられたらいかがですかと言ってもらいました。洗礼に対する憧れも持っていたので、「受けたら、何が変わるのでしょうか」と素直にお伺いすると、牧師先生は笑顔で「何も変わりませんよ」と‥正直拍子抜けしたような。
    でも帰宅してからまた考えてみると、いや、そういうものなのかもしれない、と感じています。
    それでもなお、神様との関係を明らかにする洗礼には、憧れがありますね。

  4. 匿名

    クリスチャンになっても何も変わらない。
    正直、そう思う日ばかりです。
    教会はもうイイと感じたり…
    キリスト教は御利益主義ではないと
    学びましたが…
    今の困難を解決したい、
    今の状況を改善したいと願うのは、
    クリスチャンになった第1の理由だと思うのですが。
    何も変わらない事は神を視ていない事なのでしょうか?
    次々と問題が起こると信仰とは?何ぞよ?と
    疲れる事もしばしば。
    熱心な信仰者の方とギャップを感じ、居心地悪さを思います。
    ⤵⤵本音ですm(__)m

  5. milk

    洗礼を受けても、何も変わりません。
    輝くような日々が待ち受けていることもありません。
    祈りが即、聞き入れられることもありません。
    信仰を持っていなくても、素晴らしい方は大勢いらっしゃいますし、
    逆に「こんな人がクリスチャンなのか?」と思う方も大勢いらっしゃいます。
    私自身は辛い現実から逃れたい!と思い、洗礼を受けましたが、
    その辛さを背負って生きていく事こそが、信仰なのかも?と思いました。
    どうしても受け入れられないのであれば、キリスト教から離れることも一考です。
    枠から外れて、遠巻きに見てみるのも良いかもしれません。
    最終的には、神様とご自分との関係だと思います。

  6. タクさん

    私は、受洗とは キリスト者に なるための(けじめ)だと思います。確かに(しるし)を いただきたい でも 正直 どうだろうか ?? お祈り したって 何も 感じない 何も 変わらない…… けれども 全く 普通ですよね。確かに どうせ お祈り しても とか 思いますよね。お祈り が むなしく 思いますよね。 まぁ でも それが 多数派 なんでしょうか?? キリスト教に 限らず 信仰 とは、何ぞや って、考え させられ ますね??  

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