祈りや聖書を読む習慣が身につかない

実は私、お祈りしたり、聖書を読むのが嫌いです。
とっても大切で、必要なことなのはわかっています。
でも、どうしても「面倒くさい」と思ってしまうのです。

だからでしょうか・・・先日いただいた、この短いメール、
なんだかすごく「わかるわかる!」って思いました。

生活の中で祈りをする習慣が身につきません。
聖書を開くことも同様です。
そんなに忙しくないはずなのですが・・・

そうなんですよね。
忙しいから祈れない、聖書を読めない
というわけでもないのですよね。
できない理由が、これと言って無いというのがまた問題というか・・・。

 

よく言われるのは、祈る時間、聖書を読む時間を決めると良いとか、
まずは1日5分からとか・・・
そういうことも大切だと思いますし、試してみる意味はあると思います。

でも、このメールをくださったかたも、祈りや聖書を読むのが大切だと、ご存知なのだと思います。
だからこそ、身につかないことを嘆いて、こうしてメールをくださったのですよね。

大切だと知っていながら、どうして・・・?

きっと、あれとかこれとかいう理由があるのではなくて、
意志が弱いからとか怠惰だからというのでもなくて(私の場合これはちょっとあるかもしれないけど・・・)
結局は、本気でイエス様を求めていない自分
これが理由なのだと思います。

求めているのはイエス様ではなくて、
即効性とか効果とか答えとか・・・?

祈って聖書を読めば、すぐ心が平安になったり、優しく愛のある人に変われたり、悩みが解決するなら、誰だって毎日続けるんじゃないでしょうか。

でも、祈りや聖書を読むのは、イエス様というおかたを知って、出会うため。
毎日続けるのは、毎日知り続け、出会い続けるため。

人間同士が知り合って、その仲を深めていくのも、
衝撃的に出会ってその日から惹かれ合って毎日ラブラブという方々も中にはいるでしょうけれど、
むしろ、少しずつ相手を知っていく中で、
思いが深まっていったり、時には反発したり、相手がわからなくなったり、
それでも一緒に歩み続けていく中で、かけがえのない相手になっていくのではないでしょうか。

イエス様との出会いもそうなのかもしれません。
そして、祈りや聖書を読むことは、イエス様と出会っていく場なのかなあと思います。
そうやってイエス様と出会っていくときには、必ず私が変わる。
いえ、イエス様が変えてくださるのかな?

だからまずは、「イエス様と出会いたいです。」とか「イエス様を求める心を与えてください。」
そんなふうに祈っていくのはどうでしょう?
そして、祈りや聖書から自分は何を求めているのか、自分の心はどっちを向いているのか、思い巡らしてみるのも大切かもしれませんね。
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“祈りや聖書を読む習慣が身につかない” への4件の返信

  1. どこでもラジオ

    主の御名を賛美致します。
    Twitterでも引用ツイートさせてもらいましたが、
    すべての人間もお赦し下さり、良しとして下さっている神様を信じられていて、大切で必要だとも思えているなら、今は面倒だと感じていても、いつか必ず喜んで聖書を毎日開けるようになると思うし、そうなられることをお祈り致します。アーメン。
    (原文まま。引用終わり)

    やっぱり「何事にも時がある」と聖書にも書かれているので、きっと、この方にとっての今は、祈るのも、聖書を読むのも、難しく思われている時なのかなと、重ねて読ませてもらい、思わせてもらいましたし、天の父なる神様に、私たちが意識してない時でも伴って下さる、わが内なるイエス様、いつも働かれるご聖霊の働きという存在を、信じる機会という何よりの恵みを与えられ済みなら、
    人間の頭では、いつかはわからなくても、祈ることも聖書を読むことも、必ず喜んでできる時が与えられると思いますので、今は面倒だと感じても、そのことを祈りたいですよね。
    受洗して1年少しの新米のクリスチャンが、長々と失礼しましたが、どんな時でも神様は私たちのそばにいて下さることを忘れずにいましょう!
    重ねて、お祈りさせて頂きます。アーメン。ハレルヤ。

    どこでもラジオ より
    (Twitterアカウント @dokodemo_radio)

  2. korin

    こんばんは。
    私も仕事に追われ、続けているのは主の祈りだけです。
    聖書は、放送の今日の聖書の時にたまに一緒に開くくらいです。
    でも、心の中にはいつもマリア様が居てくださいます。
    今は、これで良いと思っています。(^^)

  3. JQ2NJP クマちゃん

    Ryukaさんが書かれたように、現代において実際にイエス様に会うことはできないかもしれません。しかし、イエス様は、「かつて居られ、今居られ、やがて来られる方」と聖書には書かれています。実際、私の場合でも、イエス様が、私のそばにいてくださっていることを感じるときが、毎日あります。(まあ、それほど私が罪深いという証拠でもありますが)だから、私は、「イエス様、どうか愚かで、罪深い私を、憐れんでください。救ってください。」と祈るのです。だから、義務として毎日聖書を読むのではなく、聖書を読んでみようと思ったときに、読むことを始めたらいかがでしょうか?

  4. ryuka

    こんにちは。
    教会にも行っておらず、洗礼も受けていないのに、コメントさせていただくことを恐縮しています。

    「イエス様を心から求めていない」
    私は「本当にそうだ!!」と思いました。

    私が信仰を持ったいきさつというのは、周りにいた人がすべて去っていき、心から信頼していた人からも見捨てられ、本当に一人ぼっちになってしまい、更に心の病もなかなか良くならない。
    そのような状況で、何を頼りに生きていったらいいのかわからなくなり、強い孤独感を感じ、絶望して自死を図ったこともありました。
    けれど、神様の存在は信じていました。

    手元に聖書がなく、インターネットで「聖書 慰めの言葉」と検索して、み言葉を求めるようになりました。今思えば、その時から神様を求め始めたんだと思います。
    その時に出会った聖句は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」というイザヤ43:4でした。
    「誰にも愛されていない」と絶望していた私にとって、本当に心に響く聖句で、この聖句を読んで涙を流していました。
    色々な聖句を検索して読んでいくうちに「神様だけは、この方だけは私を見捨てない。ずっとずっと愛してくださるお方」と確信し「神様、私はもう自分の人生を自分の力で切り開いていくこともできません。これからはどうか私を支えてください。神様に寄り頼み、共に歩んで行きます!」と祈りの中で宣言し、それから信仰生活が始まりました。
    そうして底なし沼にずぶずぶと埋まってしまいそうになっていた私を、救い上げてくださったのがイエス様だったのです。

    それまでいくらかの人に支えられて生きていた私は、神様の存在を信じていても「信仰」とか「祈る」とか「聖書」などは考えたこともなく、イエス様のことももちろん何も考えていませんでした。

    信仰の入口に立ったばかりの頃から、私は苦しい試練を与えられました。「教会にも行っていない。洗礼も受けていない。だけど信仰を持っている」とクリスチャン(聖職者も含む)に話すと、鼻で笑われたり、突然怒り出して誹謗中傷を受けたり…etc ここに書くに耐えないような、ひどい仕打ちを受けるようになりました。
    長い期間に渡ってクリスチャンたちから、石を投げつけられているような、ものすごい苦しみで、本当にイエス様にすがるしかなかったのです。
    聖句を与えてくださるようにも祈り、数々の聖句が与えられたこともありました。こういった試練は半年ほど続きましたが、いつまでも試練の中にい続けることは、イエス様はお許しにはならず、傷ついて心も体もボロボロになってしまった私を癒して下さり、やっと平安が訪れ、イエス様の愛のうちに幸福で楽しい信仰生活を送らせていただくことが、現在もできています。

    何が言いたかったのかと言いますと、人は何も問題を抱えていなかったり、恵まれていてそれなりに幸せだと(それも本当は恵みなのですが)、心からイエス様を求めないのではないかと自身の経験から思ったのです。危険に晒されたり、深い深い悩み、苦しみ、孤独感など耐え難い状況に追い込まれないと、なかなか祈らなかったり、聖書を読まなくなってしまったりするものなんじゃないかな?と思うんです。

    だからと言って、試練に遭いたいと思う人はいないですよね。
    私も試練の渦中にある間は「もう嫌です。苦しいです。助けてください」と祈っていましたから。

    試練が終わったら、私は祈ったり聖書を読んだりしなくなるのではないか?とも思っていたのですが、どん底の人生を歩んでいた私を救ってくださり、試練の時もいつもいつも支えてくださり、今も「あなたに平安があるように」と語りかけて下さり、平安のうちに生かしてくださっているイエス様に対する愛と感謝の気持ちでいっぱいで「イエス様、イエス様」と慕い求める毎日になりました。
    このようにして、イエス様は私をこのように変えてくださったのです。
    「信仰」の「し」の字もなかったのに…。

    「イエス様の愛を教えてください」
    「イエス様を心から求める者としてください」
    こういった祈りは御心にかなっているので、必ず聞かれます。私も聞かれました。祈れなかったら「祈れる者としてください」と祈るのもいいのかもしれません。

    イエス様は、教会に行っていてもいなくても、洗礼を受けていてもいなくても、求める者には必ず応えてくださる方です。
    どうかイエス様と共に歩める真の喜びを味わってほしい、そんな強い思いを込めて書かせていただきました。

    長文、失礼しました。

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