教会で分かち合うもの

前回の「みんなの声」で、「教会ではプライバシーが守られない?」というお便りをご紹介したところ、たくさんのコメントをお寄せいただきました。ありがとうございます。

私自身も、だれかに自分の苦しみを聞いてわかってほしいと思うことがあります。
そしてなんとなく「教会の人」というのは、悩みをわかってくれる人だと思っているところがあるのかもしれません。
そしてまた自分も「教会の人」の一人として、もし誰かに悩みを相談されたら、解決してあげなきゃ!と意気込んでしまうかもしれません。

でも意外にも聖書には、教会で個人的な悩みを打ち明け合うようにと勧める言葉はないのですよね。
もちろん聖書の時代の人にも悩みはあったでしょうし、教会で相談することもあったと思います。
でも少なくとも聖書には、そういう事は書かれていないんですね。

「意外にも」と言いましたが、それは意外ではなくて当然なのかもしれません。

 

人間同士で分かち合えること、わかり合えることにはどうしても限界があって、それは「教会の人」も同じ。
それでも教会が分かちあい続けてきたもの。

それはイエス様が私たちに分かち合ってくださったもの。
イエス様が「これはあなたがたのためのわたしの体」と言ってパンを裂いて渡されたように、イエス様というかたを分かち合う交わり。

もちろん、教会で人間同士の温かい関係が生まれるのは素敵なことです。
悩みを相談して、一緒に祈ることも素敵なことです。
そういうことを教会に期待したり、そういうクリスチャンであろうとすることも自然なことかもしれません。

でも、教会へのそういう期待や、クリスチャンとはそうあるべき!という意気込みが強すぎて、一番大切で失われてはいけない「教会の交わり」を見失っている時があるのかもしれません。イエス・キリストを分かち合う交わりを。

すべての人が招かれているからこそ教会にはいろいろな人がいて、だからこそ人間関係は一般社会以上に難しいのかもしれません。
「人を見ないで神を見ろ」と言われても、実際に目の前にいる人を見ないなんて不可能ですものね。

それでも、教会が分かち合い続けてきたイエス・キリストに、もう一度目を向けることができますように。
このイエス・キリストに何度でも立ち帰り続けていくことができますように。