この母にしてこの娘あり

エゼキエル16章36-41

「主なる神はこう言われる。(中略)わたしは、お前を淫行と流血のゆえに裁く。
また、怒りと熱情をもって、お前の流血に報いる。 更にわたしは、お前を彼らの手に渡す。
彼らはお前の祭儀台を倒し、高い所を破壊し、お前の着物をはぎ取り、美しい飾りを取り去ってお前を裸にする。
彼らは群衆を駆り立ててお前に向かわせ、石を投げさせ、剣で切りつけさせる。
彼らは火でお前の家を焼き、多くの女たちの見ている前でお前を裁く。
こうして、わたしはお前に姦淫をやめさせる。お前は二度と報酬を支払わない。
わたしがお前に対する怒りを静め、わたしの熱情がお前から離れるとき、
わたしの心は休まり、もはや怒ることはない。(中略)
お前についてことわざを語る者は、すべて、ことわざを用いてこう言う。
『この母にしてこの娘あり』と。 」

預言者エゼキエルを通してイスラエルに語られた神さまの言葉。「わたしの熱情」というフレーズがありますけれど、
とにかく読んでいるだけで息苦しくなるような、圧倒的に迸る感情が伝わってきます。
押し流されてしまうような思いでやっと読み続けましたが、
しかし、急に「もはや怒ることはない」と言われて、正直、とまどいました。

喜ぶべきことなのに、不意をつかれたような気がします。
その急激な方向転換で思い出すのは、聖書の節々で語られる「神は思い直された」という言葉でした。
うまく表現出来ませんけれども、人間への強すぎる思いのあまりに、
思い直すべきではないのに、思い直してしまうというか、
そこでは、もはや、神さまが自分で完全さを手放してしまうように感じます。

そして、手放してしまった。神の子イエスを手放してしまった。
この預言の通りに裸にされて石を投げられて刃物で切り刻まれたのは、
実の所、イスラエルでも、私でもなく、イエスでした。
なぜ、このお方がめちゃくちゃにされたのか、それは誰にも説明のつかない事です。
取り次いだ預言者もびっくりして、今の私たちもこのショックな出来事に、
事あるごとに驚かされ続けているのだと思います。
<私の罪のために十字架につけられた。>
何度も決まり文句のように聴いてきましたが、
そのことが理屈抜きに、胸に改めて突きつけられます。
実に勿体無いことです。

「この母にしてこの娘あり」、私はこの言葉を涙無くしては読めません。
ここに込められた神さまの覚悟はどれだけのものだろうか。
愛はどれだけのものだろうか。繰り返し読むたびに、
この誠の父なる神さまにして、この主なるイエスがおられるのだと、
私の心へその熱い思いが染み渡ってきます。

(新人N)

なかなか続けられない聖書通読。
でも一緒に読む仲間がいれば続けられるかも!
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“この母にしてこの娘あり” への1件の返信

  1. korin

    私は、新約聖書しか持っていないので、エゼキエル書はまだ読んだ事がありません。ごめんなさ~い。CLCに行かなくちゃ。(^^;)

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