説教は必要か?

「みんなの声」宛にメールをいただきました。
以前にご紹介した、教会ではプライバシーが守られないのか?というお便りへの反響が大きかったのですが、今回も反響・・・というか波紋を呼びそうなお便りです。
これまでも、「教会」に関する問いや課題には、たくさんの方々が反応してくださっている気がします。
なぜなのでしょうね。

今回はこのようなメールをいただきました。

私も「みんなの声」にずっと疑問に思っていたことをぶつけてみたいと思います!
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ズバリ!
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礼拝で、牧師の説教は必要か?
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牧師の説教は神の言葉として尊重されるべき。
というのが、定説です。
でも、教会のhomepageにupされている説教を読んでみると
政治的な批判をしていたり
特定できてしまうような信徒の話をしていたり
あげくの果てには「教会では牧師以外を先生とよぶな!」と言っていたり!!!
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これ、神の言葉ですか?
牧師の主観的な言葉じゃないですか(笑)
洗脳しているとしか思えない。
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他にも「●●先生はこう言っていた」「どこどこの本にはこうかいてあった。」と、借り物の言葉での説教。
学生の読書感想文をきかされるのなら、牧師の説教はいりません。
信徒は集まって祈りあえばいい。
というのが、私の教会像です。
.
それでも皆さんは、牧師の説教は必要だとおもいますか!?

 

本当にズバリ!な問いかけですね。
もし自分の通っている教会で語られる説教が、このかたのおっしゃるような「これ、神の言葉?」と言わざるをえない説教だったら・・・
そう考えると、単純に必要か不要かというだけでは済まされない問題のようにも思います。

皆さまはどう思われますか?
皆さまのお声をぜひコメント欄にお寄せください。
こちらのコメントは10月24日まで受け付けております。

“説教は必要か?” への32件の返信

  1. FEBCスタッフ

    今回の「みんなの声」にも、たくさんの方々がコメントをお寄せくださり、本当にありがとうございました。
    皆さまのコメントを拝読し、また自分自身思い巡らしたことを書かせていただきました。
    http://www.febcjp.com/2016/10/24/minnanokoe161024/

    これからも、私たちにとって大切な課題や問いなどを、この場で皆さまと共に考えていけたらと願っております。
    どうぞよろしくお願いいたします。

  2. たぬきさん

      一連のコメントを読ませていただいた上で感じたのは、表面では「説教云々」というテーマではあっても、本当に語り合いたいのは「教会とうまく付き合っていくために、どう距離をおいてうまく対処していけば良いのか」という話題のように感じます。それだけ教会、クリスチャンとの関わりにストレスを感じている人が多いのでしょう。
     確かに「自分にとって心に響く魅力のある説教は必要だが、満たされない説教は必要ない」と言い切ってしまうのは、そこがカルト教会でない限り教会員のわがままだとおもいますが、ある意味教会員の本音の部分であることは事実だと思います。だから「自分の好みで説教を聞くと 福音は遠ざかる。」とか「牧師だって一人の人間、罪びとなんだ」といってしまったら身も蓋もないと思います。
     礼拝の後で説教の「分かち合い」の時間をもったとしても、自分の思ったことをざっくばらんに自由に話して、「ツッコミ」「質問」なんでもOK牧師もにこにこできる教会、神様大好きみたいなキラキラ教会員ばかりではない。疎外感を感じていたりして、教会は精神的苦痛を感じながらも何とか礼拝を守ることの意義を見出そうとしている教会員のしんどさに対して「その説教が嫌ならそこを去るべきです。」と言ってしまうのも残酷なことだと思います。
     それでも大切な休日を休息に充てるのでも、教会員以外の人との関わりの時間にするのでもなく、あえてストレスの教会に出向くというのは、教会が分かち合い続けてきたイエス・キリストに立ち帰りたい、もう一度目を向けたいという心の傾きがあるからではないでしょうか。これこそまさに「説教者を見ないで神をみる」ということではないかと思います。でも同時に神によしとされた私たち自身を大切にすること、霊的に粗末にしないことも神のみ旨であると思います。
     教会や司牧者とううまく距離をおいて疲弊しないように断絶しないようにかかわっていくということは本当に難しい事です。それぞれがおかれた状況の数だけ答えがあり、こうすればいいという模範解答はないのかもしれない。しかしそれこそが自分の霊性を生きる、神の道を歩むという事であり、川上直哉先生がおっしゃる「現場に呼ばれる。現場を生きる」ということなのかもしれません。
     長文の割には答えになってなくてすみませんでした。

  3. ぶどう

    やっぱりなあー。
    と思っています。
    こういう話題をする『牧師だって人間なんだから赦してあげて』というひとが必ず出てくる。

    赦した上で、どう対処していけば良いのかという話題にはなりません。

    説教が病むということは聖霊との繋がりが病んでいるということになりますから、そこをどう治療するかということを考えていく必要があります。

    例えば、牧師が説教を通じて信徒を個人攻撃したとします。
    教会生活でもパワハラを受けていた。
    信徒はストレスでうつ病になり、自殺未遂手前までいった。

    このとき、役員がやらなくてはいけないこと。
    ●事情を聞く
    ●教会に非があるなら、治療費を払う
    ●牧師の登壇停止
    ●必要なら正餐停止
    ●牧師の心の治療
    ●牧師の聖書理解の手助け

    と、まあ、ざっとこれだけ出てきます。
    しかし、これらができるほど信徒が成長しているのか。ということあります。
    そのためには、信徒もつねに学び成長する必要があります。
    赦して依存しては駄目だとおもいます。

    信徒も強くなる必要があります。

  4. アグネす

    示された教会にふらっと行ってしまうことがあります。すると、そこで語られるお説教、メッセージに現在の自分の問題に大いにヒントになる知恵や、関係者が教えられることがあります。そういう時、個別に自分にとりなしてくださる神様を
    伴走してくださる神様の恵みに圧倒されます
    牧師さんが高圧的に思えるときは、自分自身が精神的に萎えて疲れているのかもしれない、宣教熱に燃えた牧師先生とその時だけ相性が合わないのかもしれない。長い関係です、なんたって地上で死んでも終わりじゃない。牧師さんが自分を救うのではない(この教会この牧師に従わなきゃ‼ダメという処はカルトに近い)牧師さんとて会衆全てに満足させられる話もできませんし、日によってコンディションも違うでしょう。鼻で息する生身のヒト、期待しつくされても倒れてしまいます。 神様に導きを願って、あまりに苦しかyたら、他の教会なり、教会附属図書館があるエリアもあるし、で息抜きして、気長に地上での信徒人生を。 少数の先生や指導者に対してわだかまりや敵愾心まで抱えるまでになると、また、みこころに沿っているかな?と新たなストレスが生じます。

  5. ポカリ

    「教会では牧師以外を先生とよぶな」という人の言う意味は何なのか、私は考えてみました。
    教会という場所においては、実際の先生とは、キリストの御教えを説教で伝える仕事をする、神様から遣わさ
    れた牧師さんのことだと私も思ってますが・・・・。
    例えば、教会学校の教師も先生とよばれたりしますが、それは、実際は信徒のことですね。
    音楽を上手に教えることのできる人も先生とよんだりします。でも、それは、音楽の分野での先生ですね。実際は信徒のことですね。教会には、弱い人、強い人、普通の人・・・?さまざまなひとが集っているように思います。ひとりひとり違う。世界で一つだけの花の様に♡。  ?牧師さんだって、そんなに強くないかもしれませんよね!?で、それぞれの人は、神様に愛されて、生かされているのだと思いたいです!!
    キリスト様に似た行いができる温かい信徒さんも沢山いらっしゃいます!!
    素敵ですね!
    あっ、話は「説教は必要か?」でした・・・。
    まあ、私としましては、教会には、説教を聞きにいくつもりで行きますが・・・。(長時間すぎるのはbadだと思いますが・・・。)そして、どんな内容がいいかは、やっぱり、まずは、真心がこもっていて、優しさ、時には厳しさも含んだものがいいなと思います。もちろん、聖書に書いてあることに忠実な説教が聞きたいですよね!
    また、時には誰かの体験談や牧師さん自身の証が間に入ってもわるくないんじゃないかなと考えています!
    と言っているこの私は、現在、教会に行っておりませんが。転居したので、次、何処に行けばよいのか考えています。家では、日々、御言葉を読んで少しばかり黙想をして、心を整えています。
    教会というものは、元来、とてもよいものだと思っています。
    忙しかったり、体力的なことで、なかなか行きたくても教会に行けない人もいらっしゃると思います。
    「日曜日に教会に行ってみ言葉を聞き、感謝する。」ただ、それだけの生活が、自然体で、無理せずにできたらいいなと思います。蛇のように賢く、鳩のように素直であることも大切ですね。よく考えて教会選びをしたいですね。
    教会に集う人達には、神様の真実の愛と兄弟姉妹と交わす愛の挨拶が、いつもあるようにと祈りたいです。

  6. キリスト者36才

    ヨハネによる福音書 第6章 59~60、66節
    これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
    ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
    このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。

    使徒言行録 第17章 32節
    死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。

    短くしか引用できないので、各書の章は、皆さんで読んでください。(新共同訳です)
    この「みんなの声」については、二つのことが言えると思います。

    1.説教の貧しさ。
    これは深刻です。説教者が、「御言葉の役者(えきしゃ)」として自分を献げていないのです。説教に失望された方の中には、自分を神に献げていない説教者、自分のいいたいことのために、聖書の言葉を振り回している説教を聞かれたのでしょう。そして事実、このような説教者は存在します。

    確かに、人間である牧師が語るのですから、それが「神の言葉だ」といわれても・・・、という気持ちは分かります。しかし、神が主イエスの福音を伝えるためにお用いになるのは、私ども人間が、日常用いている言葉なのです。主イエスが、地上の生活の中でお語りになったのも、その当時使われていたアラム語であったわけですし、ペンテコステの場面では、使徒たちが、各地から神殿に集まった人々の故郷の言葉で、福音を語ったとも記されています。
    これは、本当にすごいことだと思うのです。だからこそ、神の名のために語る説教者は、神にすべてを捧げて、神の名のために、御言葉のメッセージを聴き取り、それを不完全な人間の言葉を用いて、何とか伝えようと、説教の言葉をつむいているのだと思います。
    人間中心に語る説教者も存在しますが、神の名のために語る説教者も少なくはありません。

    2.聞く側の問題として
    先に挙げた聖書の箇所は、主イエスがお語りになったことも、また、使徒パウロがアテネ伝道で語ったことも、福音であったにもかかわらず、受け入れられなかったことを示していると思います。なぜでしょうか。聴く人々が、「神の言葉」として聴こうとしたのではなく、「自分にとって有益な言葉か」「自分の興味を満足させる言葉か」というものさしで聴いたからではないでしょうか。私どもの説教の聞き方は、どうでしょう。
    たとえ加藤常昭先生が語ったとしても、「自分にとって気持ちのいい言葉」を期待するのであれば、その程度で終わってしまうと思います。それでも満足というならば、教会は、確かにいりません。でも、それは、「信仰」ではないです。
    反対に、「神の名のために教会がたてた説教者から、今日、私は福音を聴く」という立場で、祈り求めながら耳を傾ければ、そして、神の名のために奉仕する説教者であれば、無名の説教者であっても、その言葉から、本当の命と、勇気、慰めが与えられます。人間の思いの中で期待していた以上ものを、神は、説教者の口を通して与えてくださるのです。
    (病や、諸事情のために、集団の中で聞くことの困難な方には、それなりの配慮が必要であると思いますが、教会不要論、説教不要論とは結び付けない方が、いいと思います。)

    最近のFEBCには、少し失望しています。「説教は必要か」確かに、きちんと考えなくてはならないテーマではあると思います。だかこそ、「FEBCは、神の名のために、福音を届ける」ことを真剣に取り組んでほしい。貴局は、福音宣教のための組織なんでしょう。「御言葉の宣教、説教は、必要不可欠だ」というメッセージが、なぜ、FEBCから発信されないのかが、不思議でなりません。

    • ごんべぇ~

      キリスト者36歳さん教えてください。
      (1+1)の答えが、必ずしも(2)ではないと思っている私は・・・
      多くの人の意見を聴いて、臨機応変に対処すべきと考え、伝道者にもそのようにあって欲しいと願うのですが~~~
      間違っているでしょうか!?

      それでも、説教は「必要不可欠」~と断言出来るのでしょうか???

    • E

      キリスト者36才さまに同感です。
      「FEBC」は、よほど教会に不満をもっている方が聞いておられるような
      気がしてしまいます。
      説教のない教会、聖礼典が正しく執行されていない教会があり得るのでしょうか?
      牧師の説教云々…、人間が自分の好みで説教を聞くとき、
      福音は遠ざかってしまいます。
      右手に聖書、左手に新聞、…私の信仰を育ててくれた牧師は、
      いつもそういっていました。

      「FEBC教会」には、教会に躓いた人、いろいろな事情があって教会に行くことができない人が集われていると思いますが、
      インターネットやラジオで、自分の好きな説教だけ聞いたり、聞かなかったりするとしたら、もったいないな~と思います。
      「説教がいらない」のなら、FEBCに登場してくださる牧師や神父は、悲しまれると思います。
      「説教」を聞くことなしに、聖書が理解でき、福音がわかるのなら、
      教会もいらない。インターネットの「仮想教会」で十分?悲しい。

      私の教会では、礼拝の後でお茶を飲みながら
      説教の「分かち合い」をしています。
      「ツッコミ」と「質問」、自分の思ったことを自由に話して、
      牧師もにこにこ聞いています。

  7. korin

    初心者の私には、神様の御言葉や聖書の内容をわかりやすく解説して下さる説教であればうれしいですね。 あまりにかけ離れたお話は聞きたくありません。(;^^)

  8. 秋晴れ

    私にとってその説教は要らないと思っても隣人はその説教で恵まれて感謝しているかもしれません。その説教が嫌ならそこを去るべきです。もし牧師の所感や自慢話なら意味ないし時間の無駄と感じるかもしれません。
    私としては、イエス様が語っているよなって思うような命ある説教はそれこそ何時間でも聴きたいです!
    御霊が諸教会に語られることに耳を傾けたいと思います。

  9. たぬきさん

    炎上すると怖いのですが、正直私は「みんなの声~説教は必要か?」と聞かれたら、必ずしも必要とは思いません。その理由は私の所属しているカトリック教会の場合、礼拝の中心は聖餐式であり、聖歌も説教もそれを彩るという程度の意味合いに近いという事をかつて聞いた事があるからです。実際カトリックの平日の礼拝ではほとんどの場合説教はないし、聖歌も最低限のものを歌わずに唱える形が多い印象がありますが、聖餐式のない礼拝というものはありえません。だからといって自分の中では物足りなさはありません。短い礼拝時間や静寂という説教や歌にない良さがあり、かえってそれで御言葉そのものや聖餐式に集中できるし、また、司式者による雰囲気の差があまり出ないので安定感のある礼拝に与れる安心感があります。 
    晴○久神父様の言葉ではありませんが、説教云々の前にもっと聖餐式を見直してみませんか?と言いたいです。

    • あい

      この程度では炎上はしませんよ、大丈夫です。
      私はハレサク先生も苦手です。ごめんなさい、ファンの人………。
      せいさんしきのみ、いいですね。私は教会にいたら精神的に病むとおもって行くのをやめました。
      牧師の説教もいやだけど、教会が絶対、神様大好き❤みたいな、おめめをキラキラさせている人も、苦手です。
      もっと地に足をつけたらいいのに……

  10. 匿名

    率直に言いますと、私にとって教会は精神的苦痛にしかならない場所なので、教会自体が不要です。従いまして、牧師の説教も不要です。
    教会に行っていない第三者の立場として「何故そんなに教会に行くことにこだわるんだろう?」というのが、正直な感想です。
    確かにパウロは教会に集まり合うことを、勧めてはいますが、義務付けてはいません。
    礼拝に出席して、牧師の説教を聞くのもいいのかもしれませんが、倒れている人を見て、見て見ぬ振りをしてその場からそそくさと立ち去ってしまうのは、果たしてそれは礼拝なのでしょうか?
    真の牧者はイエス様ただお一人です。
    人間には限界があります。
    毎日祈って聖書を開き、イエス様から慰めや戒めを求めて、日々生活することも、私は礼拝であると考えています。
    イエス様に付いて行くならば、躓くことなく、本当に安心して信仰生活を送ることができます。
    牧師に不満があるのなら、納得の行く他の教会
    を探すか、FEBCの放送を聴き続けると良いのではないでしょうか?

  11. 匿名

    率直に言いますと、私にとって教会は精神的苦痛にしかならない場所なので、教会自体が不要です。従いまして、牧師の説教も不要です。
    毎日祈り、イエス様から慰めや戒めをいただくために聖書を読むことで、心から満足しています。
    私にとって真の牧者はイエス様ただお一人です。イエス様が牧者であるならば、躓くこともなく、何の精神的苦痛もありません。
    牧師の説教が必要云々以前に、クリスチャン不信に陥っている私は、教会自体が必要なのかが、甚だ疑問です。

  12. ゆめちゃん

    説教は必要だと思います。しかし、牧師の説教は神の言葉と主張して人を支配するのはいけないと思います。人である以上、時代や人としての経験や性格の影響を受けますから、牧師自身と神様との関係を語っているのが現実ではないでしょうか?生きた信仰の言葉を聞きたいです。教義の本と答え合わせしたような説教もいりません。

  13. 涙目

    信仰抜きの、説教用不要論に、意味はあるのでしょうか?

    • ぴく

      信仰がないと思われるのはなぜですか?

  14. あふぁ

    FEBCの皆様
    時々、ネットで拝聴させていただいております。
    私はかつてカトリック教会でお世話になっておりました。現在は正教会に帰正(転属)しております。
    教会の説教に限らず、教会の営み全体に謹みや真摯さが薄れていっているように思うことがあります。
    かつて所属していた教会では、祭日に平和問題を取り上げたり、典礼の楽曲に歌謡曲が使われたり、典礼中に信仰と無関係な振る舞いが珍しくありませんでした。神殿内で商売するような教会のように思えて、無花果の木のような裁きを受けないだろうかといたたまれない思いを耐えながら所属しておりました。
    現在所属する教会では、右も左も中道も、朗読される福音書と無関係な説教を聴くことはありません。
    私も祈りや典礼中に心を散らすこともあり、去った教派の批判をするのは大変僭越とは思いますが、このメディアを通して参考になればと思い、真面目な思いを意見させて頂きました。

  15. シュート

    礼拝で説教は必要か?とのテーマですが、説教は必要と思っています。
    以前、カトリックの司教区教会で司教様の説教を拝聴したのですが、ヨハネ福音書の8章を題材に分かりやすく話された事が印象に残りました。
    郵便ポストのコーナーでも、教会の聖職者がおかしいという内容が時々あるのですが、FEBCの放送に出演される牧師先生、神父様のような優れた聖職者ばかりではない、という現実は悲しいです。

  16. JQ2NJP クマちゃん

    受洗後まる4年がたとうとしている信者から一言。
    私は、私塾の教師の経験があります。牧師、神父と教師とを一律に語ることは、間違っているとは思いますが。
    毎回毎回の説教が、聖霊に満たされて、喜びに満ち溢れて、神様のみこころを語ることができれば、とても素晴らしいと思います。まさに、神様の臨在を感じる瞬間です。しかし、ちょっと立ち止まって考えてください。牧師、神父とは違いますが、学校や塾の教師や講師は、似たようなものではありませんか?少なくとも、公立学校の教師なら、ある程度仕事の保障はあるでしょうが、私立や私塾では、まったく保障はありません。同じように、牧師、神父もまた、その教団から任されている教会の経営を上手にやらなければ、仕事の保障はないのです。しかし、牧師、神父といえども罪赦された罪人なのです。確かに信徒や信者は、毎回毎回の神様の臨在を求めます。そして、牧師、神父には、神様から与えられ、ゆだねられた、私たちを教え諭す=牧する 仕事が与えられています。しかし、牧師、神父も、私たちと同じ罪人です。だから、同じ罪人の相手に完璧を求めないで、自分がその立場だったらとお考えになるといいのではないでしょうか?そして、どうしても納得できなかったら、その教会を離れ、新しい教会を、神様から与えられるように、祈ってはいかがでしょうか?
    おせっかいが過ぎました。あなたの疑問にあったみことばが、神様から与えられますように。

    • かなごん

      牧師や神父に完璧を求めているのではないと思いますよ。
      私塾でたとえるなら、こうなります。

      教え方にむらがある先生がいます。
      でも、人間だし子どもたちも成績が横ばいだし、まぁよしとしました。

      ところが授業がナチス礼讚、日本帝国万歳、南京大虐殺はなかった、という内容になり始めました。
      これは、正しい授業ですか?
      こんなに片寄るなら先生は必要ありません。
      ところが片寄った塾はここだけではないようです。
      となりまちにもあるようです。
      これなら、先生は必要ないのではありませんか?

      という感じだと思います。
      もちろん、みんな赦された存在だけど、自分は神だ、という人を指導もせず許し続けるのは大変危険なことだと思いますよ。

      • JQ2NJP クマちゃん

        一つ疑問なことは、私塾なら、生徒がやめていって、いくら先生が一人で頑張っても成り立たないでしょうが、教会なら成り立つのでしょうか?以前TVでアメリカのカルト教団の事件の番組を見ましたが、そこに集う信者と呼ばれている方たちは、逃げ出すことができなかったのでしょうか?それほど洗脳されるほど、コントロールされているのでしょうか?理解に苦しみます。ごめんなさい。論点がずれまくっているかもしれません。

        • JQ2NJP クマちゃん

          実は今日まで何回も反芻しました。気分を害されたのならお詫びします。

          • かなごん

            気分は害していませんよ。大丈夫です。
            たった今このコメントに気がつきました。

            洗脳されちゃうと逃げ出すことができなくなります。
            承認欲求が強いと特に逃げ出せなくなります。

            それを人間の弱さとして見るのか、見下すのか、は人それぞれです。

  17. 十字架

    牧師は、カトリック時代の神父の役割を引いて(引き継いで)いるのでしょうか。

    しかし、一方で、神父とは違う、ヒエラルキーのない、信徒と同じ目線、と言う事もあるのでしょう。

    だとしましたら、牧師も信徒も同じ神様の子です。

    せっかくですから、批判している方に(嫌味や攻撃的な意味ではなく)、説教をしていただく、と言うのはいかがでしょうか。

    牧師の大変さを実感してもらう、と言う意図でなく、あなたなら何を語る!?と言う提起です。

    批判している人だけでなく、いろいろな方に語っていただく。

    私は本旨から外れるかもしれませんが、牧師の説教よりも、その教会(特にプロテスタント)の内輪の仲がよい分、内部の方々だけの閉じた関係性に疑問を感じます。排他的、と言う事もありますが、説教や礼拝に於ける「内輪受け」(内輪での自己満足)を感じます。

    しかし、皆さん、頑張ってやっていらっしゃるのでしょうし、本当にその辺りを裁く(ジャッジする)事が出来るのは、主だけであると言えますよね。

    • かなごん

      奨励、というものでしょうか?
      そういえば私の教会は奨励禁止です。
      ここ数年、信徒の証はないですねー。

  18. かなごん

    牧師さん、神父さんからのメッセージもぜひ拝見したいです!

  19. 横山みつこ

    初めまして、M.Yです。説教は必要か?の投稿を読まさせて頂きました。私もこの様なお話しを随分聞かされて来ました。牧師としての資質が問われる様な発言をされている先生とも会った事があります。又教会内の人間関係に置いても巧みに神の名を利用して人を支配して来る人がいたりします。今の時代パワハラだとか虐めが蔓延っている世の中、教会にまで蔓延している様に思えてなりません。私も今は、教会から離れ、FEBCの放送を頼りに信仰を守らせて頂いております。人間同志の信仰による交わりが無く孤独です。

  20. のりぴい

    こんにちは。「牧師の説教の要否」が問題のようなので、私見を述べます。
    そもそも神様は人間をどのように作りたかったのでしょうか。
    具体的問題の細部は聖書には記述されていません。
    ただ「これは私の心にかなった愛する子」というイエスに対する評価があるだけです。
    従って、「牧師の説教は必要か」という問いかけに対しては聖書に記述はないというのが答でしょう。
    しかし、イエスを行動基準にせよという言葉はあります。
    牧師という職業はイエス・キリストの行動を伝えるのが職務の一つです。
    イエスの行動を伝える意味で牧師は必要と思います。
    方法は他にはFEBCのような放送媒体を用いるのも一法でしょう。
    結論的に人間が喜んで生きられればOKなのでしょう。
    私のような身体障害者の声も聞いてもらえれば・・・と思います。

  21. 岡田豊二

    御言葉によって羊を牧するのが牧師ですから、説教は必要だと思います。
    `自由´は素敵ですが、特に現代人は`自分の物差し´で他者を身勝手に評価することに慣れすぎているのではないかと危惧しています。全てをご存知なのは神様だけなのですから、先ず、`神の国とその義´を求め、裁きと評価は主にお委ねして、牧師の働きに祝福を祈る者で在りたい‥と願います。
    …とは云いつつ、私にも牧師の言葉に躓いた経験が何度かありました。例えば、旅先で礼拝に加わりたくて初めて訪ねた他教会の入口で『煙草の匂いがする‥帰れ!』と牧師に睨まれ追い出された事や、説教の最中に居眠りしている信徒を怒鳴り叱る牧師に驚いた事、等々‥。
    …でもね、イエスに祈り尋ねると、いつも『あなたはどぅか? 答えてごらん‥』と教え諭されるのです。牧師も神様の前では、私と同じひとりの弱い人間ですょね? 虫の居所が悪いことや、神様にしか解らない御事情がおありでも、何も不思議ではありませんものね‥?
    確かに、躓いて血が流れ痛むこともありますが、神様が癒して下さる。それもまた恵み。遥かに遥かに豊かな恵みと祝福が、説教には満ちていると私は思います。

    いつも、FEBCのお働きに感謝して居ります。
    スタッフの皆様の御健康とお働きが、これからも豊かに豊かに祝福されますように‥。
    イエス様の御名により祈ります。アーメン!

  22. Gyugyu

    実は私も牧師の説教に満たされていません。説教が必要かどうかと言えば、必要と思います。問題は中身です。私は説教はその牧師を通して、神様のメッセージを聞くことだと思います。牧師の経験値、年齢によって、無理なことはもとめていません。私に届くのは、聖書の知識、背景で、勢い引用が多岐に渡り、聞き進んでいくうちに混乱が生じます。イエス様が私たちの罪を背負って、十字架にかかったが、復活なさったということを、ただ繰り返すことが説教と考えているとしか思えません。
    今の私は、FEBCに支えられていると言っても過言ではありません。毎日インターネットで聞く時間が至福の時です。加藤常昭先生、村上ひろし先生、吉崎惠子姉妹に始まる方々の語る神様のメッセージを聞けることが感謝です。うちの牧師さんももっとよい説教をたくさん聞いて欲しいと願うばかりです。

  23. 匿名

    今回のメールを お寄せ下さいました リスナー様 こんにちは(^o^) 貴方様の おっしゃられ ました こと、私は もっともだと思います。私だったら 低レベルな キリスト教会には、行きたくないですよ (-_-;) キリスト教会の牧師先生 勉強不足 がぁ みうけられますよね。 まぁでも 牧師先生 だって しょせん 人の子・・・ あ~ 霞を食って 生きている わけでは ありませんよねぇ~ ? いまのところ より もっと 条件の良い 教会に 本音は 転任 したい!? 本音は ねぇ~ ?? 地方のキリスト教会を維持していくため・・ 嫌らしい かも しれませんが~ やっぱり(お、お金が ねぇ~ (-_-;))~~ 無いん じゃ~(日本FEBC も 厳しい 厳しい) あ~ あ~ (>_<) タクさん より  

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