生きた信仰の言葉を聞きたいです。

先月、FEBCでもお馴染みの加藤常昭先生の「自伝的伝道論」という講演を聴く機会がありました。
文字通り、先生がこれまでのご自身の歩みを振り返りながら伝道への思いを語られた講演だったのですが、その中でびっくり仰天のエピソードが・・・。

先生がまだ二十歳くらいの学生だったときのこと。
通っていた教会の牧師に面と向かって「先生の説教を聴いていられなくなったので教会を去る」と言って、その教会に行くのをやめたというのです。

さすがは加藤先生!もし牧師の説教が聴くに堪えなかったとしても、私にはそこまで言う度胸はないなあ、と思ったのですが・・・。

その講演を最後までお聴きして、先生に度胸があったからではなく、そう言わずにはおれないほど、みことばから福音を聴きたいと切望して、本気で飢え渇いて求めていたからではないだろうか・・・、そう思えてきたのです。

私はといえば、説教がイマイチでも「まあ、しょうがないや」と諦めモードで、先生のような切実な求めが薄れてるなあと思います。
でも、加藤先生のみことばを求める純粋さ、ひたむきな心に触れて、なんだかすごく感動しました。
私も本当は、みことばから慰められ、生かされることが必要で、もっともっと求めていきたいという気持ちになりました。

先日、「みんなの声」のコーナーで「説教は必要か?」というお便りをご紹介し、たくさんの様々なコメントをいただきました。
実はこのお便りをご紹介したときは、さすがに説教はいらないというのは言いすぎなんじゃないか?という思いもありました。
でも、皆さまのコメントをお読みして気づかされたことがあります。
ただ単に「礼拝のプログラムの中に『説教』という項目は必要ない」ということとは違うのだと・・・

 

むしろ、本当は説教から自分を生かす言葉を聴きたいという願いや期待があるからこそ、そうではない説教への失望も大きいのかもしれないと思ったのです。
期待が大きいほど、期待を裏切られ続けたら、もう期待することすらやめて、「いらない」「なくてもいい」と思うことは、このお便りのかただけではなく、私自身にもあります。
でも、それじゃあ、本当にいらないのか?

「生きた信仰の言葉を聞きたいです。」
そうコメントしてくださったかたがいらっしゃいました。

「説教はいらない」という思いの、その奥にある本当の心はこれではないでしょうか。

実際に説教がイマイチだったり酷い場合、具体的にどうしたらいいのか?
コメントの中にも、他の教会に行く、説教者のために祈る、FEBCを聴くなどなど様々なご意見がありました。
礼拝後に説教の分かち合いをしているというかたや、ミサの静寂の中でみことばと聖餐の恵みを味わっているかたもいらっしゃいました。

「こうしたらいいです」というひとつの答えは出せないけれど、「生きた信仰の言葉を聞きたいです。」と願い続けていくのをやめないことが本当に大切だと思いました。
時に、その願いが心の奥底に埋もれてしまうこともあります。
でもまた新たにその願いがよみがえってくることもあると思います。
そのきっかけの一つとして、このように皆さまと共に考え、また祈り求めていくこの「みんなの声」がお用いいただけたらうれしく思います。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネ福音書1章14節)

肉となってわたしたちの間に宿られたみことばであるイエス様を求めていく歩みを、これからもご一緒に続けていくことができますように。sashie_minnanokoe161024