神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書3章16節
今回の「恵子の郵便ポスト」のお便りは、この御言葉をお読みになったかたからの、FEBCスタッフへの問いかけです。
「独り子を信じる」ということが、私にはとても難しいのです。
神様に愛されていると思う時もあれば、
思いたいのになかなか実感できず、
寂しい思いをして失望している私がいます。信仰とは、目に見えないものを信じることとは思いますが、
悩みの解決がつかない時、
神様やイエス様はどこに、また本当にいるのかしらと思ってしまいます。スタッフの皆さんは、いつもどんな時も
イエス様が一緒にいてくださると感じていらっしゃいますか?信じることが難しい時、私はまだまだ信仰が薄いのだと思い、
でも本当に神様もイエス様もいてほしいと強い思いで願います。信じきることは、私にはとても難しい、そして常に提示されている大きな問題です。
信じるってどういうことなのか、考えずにはおれなくさせられる問いかけです。
いつもどんな時もイエス様が一緒にいてくださると感じることができたら、本当に素晴らしいと思います。
でも、そう感じられなくても、そうであってほしいと願い求める心をも、イエス様には信仰として受け入れていただきたい・・・そう願わずにはおれません。
【追伸】-『あなたはどぅか?』とイエスが問う-
例えば、私はめだかを飼っています。お魚は観るのも食べるのも大好きです。
例えば、私は時々雑草をちょん切って持ち帰り、お茶碗の水に浮かべて眺めています。とても嬉しくなるのです。
…さて、彼らは何も文句を謂わず、唯々ひたすらに水と光を求めて精一杯に生き抜いて見せて呉れます。与えられた命を謳歌し、そして惜しみなく与える。
何故、人にはそれが出来ないのでしょうか?
何故、人は怖れ、疑うのでしょう‥?
信じることは難しぃ~です。むしろ‥とてつもなく難しぃ~からこそ神を求めた私のケース(証し)を述べさせて下さい。
今はもぅ、56才のおっさんですが、幼少の頃は父親不在で母からのDVに苦しみ、18才の時に自転車で聖書だけを持って家出をしました。
「‘信じられる’“愛と真理”が欲しぃ!」
…それが、小学生の頃から抱き続けた私の望みでした。放課後は「家に帰りたくない‥」と野山を駆け巡り、図書館に通い、理科実験室で顕微鏡を覗いてはアメーバの動き(命)に感動して涙を流す孤独な子供でした。
「‘信じられる’“愛と真理”が知りたい‥」
「人はきっとそれを“神”と呼ぶのかな?」
高校生の時、同級生に誘われ始めて教会に行きました。牧師に『飛び込んで来なさい!』と招かれ飛び込み(受洗し)ましたが、スグに教会に失望して放蕩息子になりました。まだ聖書もろくに知らず、唯「旅を続けて多くの苦しむ人々を救ったイエスが‘好き’」だったに過ぎない私は「教会に集うのも‘正しい人々’に違いない」と勘違いしていたのです。ある日、いつも教会では柔和な笑顔を絶やさない役員さんが、鬼の形相で幼い息子を殴っている姿を、たまたま商店街で見掛けてしまったのでした‥。
「きっと全ての人々が同じ神を求めているんだ‥」
「でも、神にそれぞれの民が別の名を与え“神様”にしてしまうから‥戦争が絶えないんだ!」
「神は“神様”でなく神のままでイィ‥」
「だから、神に名は要らない!」
つまり、私には『“神様”を信じられますか?』と云う問いは存在せず、「‘信じられる’“愛と真理”を神と呼ぶ」‥ようになったのです。
(通常とは逆の見方かも知れません。)
…それから20年近くを経て、妻と子に恵まれ、仕事も経済的にも順風満帆だった私は神戸淡路大震災に遭遇しました。全てを失い健康まで損ないました。つぃに身動きも出来ず、唯々死を待つばかりとなりました。(まるでヨブ記のように‥、親・兄弟・親戚・親友・家族に理解されず見捨てられました。)
「いったい私にどんな落ち度があったと云うのだろう?」
「他人の為に一生懸命尽くして来た筈だ!」
「私はとっくにクリスチャンではない」(誤解)
「受洗もきっと‘時効?’に違いない」(誤解)
それでも最期に望んだことは、
「‘大好き’だったイエスの本当の姿を知りたい」
「誰にも分からない理不尽とこの無念さを誰かに聞いて貰えるとしたら、人の為に一生懸命尽くして十字架で処刑された、あのイエスにしか‥」
と云う稚拙で切なる想いでした。
「…そぅしてから、なるべく他人に迷惑を掛けないように死のう‥」
17才の時から持ち歩くばかりで‥いきなりマタイの系図に躓いて一向に読み進められなかった聖書を、私はようやく‥でも一気に通読出来ました。既に電気も電話も止められて3ヶ月間、布団で寝ることはなく、風呂にも入れず、ひたすら砂糖と鰹節で空腹を凌ぎ、水を飲みトイレに行く‥以外は椅子に座り放しでした。(座ったまま眠っていました。)
イエスの本当のお姿は、私が想像していたものとは随分と異なって、遙かに貧しく、且つ遙かに温かくて偉大でした。
…そぅして、私は初めて“神様”を知りました。
「イエスはこんな私を覚えていて下さったんだ‥!」
「私は理屈ではなく“神様”を慕います」
難病+自己破産+精神障害者‥。
“神様”のあり得ない不思議な奇跡で私は守られ生き長らえました。
…あれから更に20年余り、
+脳梗塞+身体障害者‥。
猶も“神様”は、あり得ない不思議な奇跡で私を瞳のように守り続けて下さっています。平安です。
私には他の神々のことは解りません。
しかし、私もイエスに望み、イエスの贖いで“神様”に救われ生かされていることは“事実”です。苦しみの中で、他の神々は私に何も応えては呉れませんでした。
私にとって『“神様”を信じられますか?』‥と云う問いは相変わらず不要です。信じられる存在を神と呼ぶからです。
「‘信じられる’“愛と真理”が知りたい‥」
「人はきっとそれを“神”と呼ぶのかな?」
・
「はぃ、それは“在る”と呼ばれる神であり、“イエス”のことでした」
「それは私の“神様”であり、万物の創造主である“神様”でも在られました」
人は本当に弱くて‥、愚かな私には到底何かを“信じ切る”力はありません。(ペテロが身近に感じられます。)…でも、…だから「‘信じられる’“愛と真理”」が“在る”ことが、私にとって唯一の生きる希望です。
アーメン‥
たまたま、でしょうが、27日放送の『どこへでも、どこまでも』のメッセージでイエス様からの『信じる』ということへの問い掛けについてのお話がありました。結局、救われた私たちは、信じるか信じないかという選択ではなく、「信じます!」と宣言するしかないんでしょうね。
今回お便りを寄せて下さった方がどのような方かはわからないので、上から目線のように感じられたら、非常に申し訳ないけれど、キリスト教の救いって、「信じるから救われる」と言うより、まず自分のほうが折れるというか自分の罪を告白して、自分の全部を神様に差し出してからっぽにしてから神様を受け入れないと、自分の環境は変わらないような感じがします。
自分のような人ばかりではないかもしれませんが、自分の場合、神様を受け入れたときは稲妻が身体を走り抜けるかのような衝撃がありました。
もちろん、その前段階としては、自分が神様の前ではどんなに罪深いことをしていたんだか、という告白がありました。
ただ、救われてもいまだにサタンの誘惑に遭います。サタンがイエス様に誘惑したのと同じように。「神様なんて本当はいないんじゃないか?」「どうして、こんな試練が続くのか」等。
でも、「神なんていない」ということを証明しようにも、結果、全否定ということにはならず、不思議な働きを実際に感じるから、やはりいらっしゃるのでしょうね。
祈りがなかなかきかれず、イライラしたり神様に文句を言うのはしょっちゅうありますが、神様への祈りって自分が忘れた頃に聞かれることが多いので、そういうところで信仰が試されているのかな、とも思います。
すぐ答えを求めたがる現代人には、答えがなかなか与えられないのは非常にきついんですけどね。
私も、神様は本当に居られるのかしら?と思う時がありました。
お祈りしても、答えは何も頂けず、現状は何も変わらず、不満と不信だけが積もり…。
聖書も読まなくなり、教会へも行かなくなり、…でも、半年ほども経ったある日、マリア様にお祈りというか、お願いというか、お尋ねをしたら、心の中に感じることがありました。(^^) 嬉しかったです。
お便りの主さんの問いかけの切実さに、何だか胸がつまりました。行く手に光が全く見えなくて、
八方塞がりで、「イエスさま、本当にいるんですか!?」と思ってしまった時が私にもありましたから。
でも、今は、イエスさまがいらっしゃることを、私と共にいてくださることを、素直に信じられます。
ただ、どのように闇を乗り越えることができたのかを、具体的に説明することはできません。
自分の意志や努力によって乗り越えたものではないからです。
さまざまな出来事・人物などを通して、イエスさまのお働きが示されたように記憶しています。
お便りの主さんにも、ある日ふいに、「イエスさまが共にいてくださっている」と実感できる、
出来事・人物などが与えられるのではないかしら・・・と個人的に思っています。
(ずいぶんと感覚的なコメントで恐縮です)
確かに 信仰 とは 何ぞや ?? 信じる か 信じないか ですよねえ?? まわり は どうであれ、私達を含め 本人 が どう 思うか 難しい こと では ありますよね。外野から いろいろ と 惑わされ ちゃったり も ありますしね 貴方様が 貴方が 信じる か 信じないか うーん 信仰 とは ?? 日本FEBC のスタッフ様 も 毎日 毎日 年がら年中 何年も 何年も 全国の方々の為に 本当に 私は お疲れ様って 申し上げたい です、業務 お仕事 だから、まぁ 時には 諸々の 御返答 重複する こと だって あるでしょう。いや~ 私は リスナー様の為に キリスト教の伝道の為に 働かれて おられます、日本FEBCのスタッフ様に 感謝 感謝 感謝 そう 思っています。 まぁ たま~には ありきたり の こと だって そりゃ たまには ありますよ たまには (^o^)