二度名前を呼ばれる

今回の「あの方の瞳の中で」を聴いて、「あれ?これと似た話、わりと最近聴いたような気が・・・」と思ったのは私だけでしょうか?

私が似ていると思ったのは、「イエスにぶつかる」の先週の話だったのですが、
実際に改めて聴き比べてみたら、聖書箇所も話の内容も全然違っていて、まるで似ていませんでした!

それでも似ていると思ったのには理由があります。
この二つの話、ある共通点があったのです。

「イエスにぶつかる」のほうはパウロの話、
そして今回の「あの方の瞳の中で」は、マルタとマリアの家をイエス様たちが訪れたときの話なのですが、
パウロもマルタも、イエス様から二度繰り返して名前を呼ばれているのです。

普段、名前を二度呼ばれることはあまりないような気がします。
一度呼ばれても気づかなかった時くらいでしょうか。

でもイエス様は、二度名前を呼ばれた。
それももしかすると、気づいてほしかったからかもしれません。
何にでしょうか?

まったく違うけれども、どちらもイエス様に二度名前を呼ばれるこの二つの番組、聴き比べて、どうしてイエス様が二度名前を呼ばれたか、その意味を考えてみるのも面白いかもしれませんね。

番組をお聴きになってのご感想コメントもお待ちしています。

「イエスにぶつかる」を聴く>>

「あの方の瞳の中で」を聴く>>

“二度名前を呼ばれる” への4件の返信

  1. たぬきさん

      FEBCスタッフの皆さんからの宿題に取り組んでみました。長文になって申し訳ありません。
     ユダヤでは名前を2度呼ぶのは大変親しみを込めた事で、ここからパウロもマルタもダメだしされたのではないという事は明らかに解ります。そこでさらに番組を聴きすすめ、11/1のイエスにぶつかる―そこに響く言葉―「5神様、あんたはバカ親父だ」と11/3 のFEBC HANGOUT!「18迷うの、そこじゃないでしょ」同じく11/3恵子の郵便ポスト「教会の奉仕は無理なくできるところからで…」からヒントを得てみました。
     まず、彼らは放蕩息子の兄をような架空の人物ではなく実在の人で、さらに「現場に呼ばれて現場を生きて疲弊していた」のではないかと思われました。そして神は彼らが燃え尽きるのではなく、「現場で生き延びるために世間の常識をさらに越えてほしかった」のではないかと思いました。
     これを心理学用語を使って具体的に言うと、「補償行為、つまり無価値感や罪悪感を埋め合わせるための頑張りををやめてほしかった」のではないかと思いました。すなわち補償行為は神ご自身が御一人子イエス・キリストをとおして十字架の贖いという形でなさる事であって自分でする事ではない。そんな事しなくてもそのままで、神ご自身が補償行為をしてくださる程に大切にされる価値がある。それほどにまで自分は神に愛されているのだという事を解ってほしい。それこそが2度名前を呼んだ理由、神の御旨なのだと思いました。
     さらに言うと、「社会の為に、誰かのために何かをする」ことはやれて当たり前ではない。パウロの「みんなが幸せになれる社会になれたら嬉しいから、社会正義の為に頑張ってきた使命感」やマルタの「誰かが笑顔になってくれると嬉しいから、みんなの為に何かをやってあげたい強い志」というポジティブな動機は神から与えられた賜、こんなに素晴らしい賜があたえられた自分の価値をきちんと感じて認め、感謝すること。あとは神をただ信頼して待ち、御声を聞いて示された事でやれる事だけを精一杯してくれたらそれでいい。そして何よりもめざすゴールは神と共にあるという事に尽きるのではないかと思いました。
     あるプロテスタントの起業家の方が、「大事なのは自分の気持ちがついてきているのかどうか。気持ちがついていくというのは、キリスト教でいう「平安」に当たり、神は無理させたりなさらない。けれども、何をもって平安となるのかはしてみないと実は分からない」とおっしゃっていました。さらにこの方は「継続は力と言われるが、力は継続ではない。休息をうまく取り入れる事も継続の秘訣」ともおっしゃていました。
     結論として「パウロ、パウロ。そしてマルタ、マルタ。そこじゃないでしょ~!もうやめなよ、そういうこと。疲れるでしょ?それよりわたしのこと、ほったらかしにしていないかい?わたし自身をもっと求めて!!」って呼びかけておられたんだと思います。
     今回も長文で、理屈っぽくなってしまいました。読んでくださった皆さん、ありがとうございます。そしてこのような黙想の機会を与えてくださったFEBCスタッフの皆さんに心から感謝いたします。

  2. のりぴい

    毎日の説教はメモをとりつつ聞くようにしています。
    関野和寛先生や岡田 薫先生の話は、イエスとの出会いの問題と思います。
    「二度名前を呼ばれる」のは神様に呼ばれる問題で、招聘の問題でしょう。
    何かをすることが招聘の結果とされることが多いと思います。
    私は事故後、家族の世話になるばかりで、普通の人のように何かをすることができません。
    ですが、毎週教会に行ったり、人の言動を見るのは可能です。
    リハビリにも毎週通うことはできます。
    従って、この生活を通常の人に見てもらうことがイエスの力と思っています。
    これで十分招聘に応えていると思っています。
    貴局の放送を聞くのもその一つでしょう。

  3. ごんべぇ~

    私も、イエス様に二度、自分の名前を呼ばれたいなぁ~~~☆彡
    一度くらいは、あるかも!?
    でも、私が、気づけないているだけ・・・。
    なぁ~んて(#^.^#)

    • ごんべぇ~

      私の間違い?勘違い?御心とは違う行動?イライラ?罪?を
      優しく、自分の子供を諭すように、慈しんで欲しい(*^。^*)

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