「真面目」とか「優等生」という言葉、本来は褒め言葉なのでしょうが、そう言われて嬉しいと感じるより、ちょっと嫌な感じがする場合が多いような気がします。なんだか、「つまらない人」とか「堅苦しい人」と言われたみたいで…。
だから、人から「真面目な人」と思われないように、わざと自分の真面目な部分を隠したり装ったりすることも…。
いつも誰の前でも、ありのままの自分でいられたらいいなとは思うけれど、
自分を人に良く見せようとしたり、
逆に、「そんなに立派な人間じゃないよ」ということをアピールしたり。
どちらも結局、人の顔色を伺って、人に合わせて、
そうすることで自分を守っているのかもしれない。
そして、それをやめられない自分・・・
でも、ありのままでいられるように頑張ろう!というのもちょっと違う気がします。
ただ、そういう私に、今日も呼びかけているイエス様、
そのイエス様の呼びかけに今日も気づいていきたい。
番組「FEBC HANGOUT!」を聴きながら、そんなことを思いました。
FEBC HANGOUT!
長倉崇宣(日本FEBCスタッフ)
毎週木曜更新
「迷うの、そこじゃないでしょ」
「私は理系ですが」さん、こんばんは。(^^)
>世の中の人は、自然体で生きている私たちをともすると「クリスチャンらしくない」と批判する人も出てくるかもしれません。そんな時はこう叫びましょう。「これでもクリスチャン!神様はこんな私でもゆるしてくださる!」。
>略して「でもクリ」。
「でもクリ」、いいですね。すでに主は「ゆるしてくださっている」んですものね。
私も、聖霊のお働きを信じて、焦ることなく、安心して委ねて歩んで行こうと思います。
やはり、日本人クリスチャンは少数派であるので、まじめにやっていないと、「あの人、あれでクリスチャンなの?」などと陰口を言われそうで、それで、本心は違うけど、まじめにやらないといけないと気負って心苦しくなってしまっている人が多いんではないでしょうかね。
でも、神様は(いいことも悪いことも)なんでもお見通し。
「ええかっこしい」したところで、神様には私の心はばれているので、気負ってする必要はないのです。
よく誤解されている聖書の箇所、コリント第一4章5節以下の
「主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。」と聞いて、神様は恐ろしいと考える人が多いですが、そのあとの「そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです(新改訳)。」新共同訳なら、「神からおほめにあずかります。」とあります。
神様は私たちを裁くために来たのではないのですから、別に「敬虔な」「クリスチャンらしく」する必要もないですよね。
世の中の人は、自然体で生きている私たちをともすると「クリスチャンらしくない」と批判する人も出てくるかもしれません。そんな時はこう叫びましょう。「これでもクリスチャン!神様はこんな私でもゆるしてくださる!」。
略して「でもクリ」。大丈夫、私たちはどんなに成長していないかのように見えていても、聖霊様の導きによって、イエス様のようになるのだから。それが人によってはすぐなる人もいれば、そうでない人もいる。
私の場合もいまだにそうではない。相変わらず、肉の思いが強い。でも大丈夫。焦ってもしょうがないし焦る必要もない。
「自分は大器晩成型の『でもクリ』だ!」と信じてゆだねて歩んでいきたいてですね。
長倉さん、初めまして。11月3日の「FEBC HAHGOUT!」、拝聴しました。
イエスさまは私に何を語ろうとして下さっているだろう?私が受け止めているイエスさまの声はどんな声かな・・・って、3回番組を聴いた後、しばらく考えていました。
私、「ええかっこしい」のところがあって、それこそ、「私はクリスチャンとして合格?不合格?えーと、これだったら合格ですよね?」って神さまの前で「ええかっこしい」になってる時があるんですよね(自覚している時もありますが、無自覚の時もあるはずです、絶対)。
番組で、長倉さんは「神さまに対して、よく見てもらおう、とする自分に、神さまは『長倉くん、もうやめなよ』って語って下さってると思う」とおっしゃっていました。そのお言葉がとても印象的で、番組を聴き終えた後に、何度も思い巡らしました。そうしたら、ふと、「そっか。『ええかっこしい』の私のこと、イエスさまは全部お見通しなんだ!」ということに気づいて、すごく気持ちが楽になったのです。
「あなたが『ええかっこしい』であることも含め、すべてのことを、私はもうとっくに知っているんだよ。
だから、どんなことについても、くよくよ悩まなくていいんだよ。私はいつもあなたを愛しているよ」
イエスさまは、こんな風に語って下さっているように感じました。