わたしが来たのは地上に火を投ずるため

いったい何のために、神の子イエスは天から地上に来られたのか?

今日放送の礼拝説教で、このクリスマスの出来事の意味を、主イエスご自身がこう伝えていると語られます。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」(ルカによる福音書12章49節)

主イエスが「わたしが来たのは・・・」と、ご自分が地上に来られた理由を語っている聖書箇所は他にもいくつかあるのですが、これほど恐ろしい理由が語られている箇所はないと思います。
「火を投ずるため」。
しかもこの説教では、この御言葉がクリスマスにふさわしい言葉として語られるのです。

主イエスが投ずる火、しかも「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」というほど切望された火とは、どのような火なのでしょうか?

角本先生はこの説教の中で、こうはっきりと語ります。
「この火は私たちの中にはありません。」
しかも、私たちの中にはこの火とはまったく別の火が燃えているというのです。

主イエスの「主よ、私の願いではなく、御心のままに」という祈りとは真反対の思いがメラメラと燃えている自分。
その自分に対して主イエスが投じられた熱く燃え盛る火の前で、この讃美歌の歌詞を幾度も思い巡らしたいと思います。

主よ、飲むべき我がさかずき
選びとりてさずけたまえ
喜びをも悲しみをも
満たしたもうままにぞ受けん
(讃美歌285番 3節)


礼拝番組 全地よ主をほめたたえよ
日本福音ルーテル神水教会・角本浩牧師
第3日曜日更新

説教:「神様の熱いハート」(ルカ12:49〜53)

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“わたしが来たのは地上に火を投ずるため” への2件の返信

  1. korin

    神様の投ぜられた火がいつまでも消えませんように。☆

  2. 私は理系ですが

    「火を投ずる」ってことが恐ろしいと?
     
    自分はそうは思いませんでした。むしろ、自分の中にある「燃え盛る火」について話された時に「なるほどな~」と思いました。昨今の少し行き過ぎた感のある個人尊重の時代では、キリスト者であっても神様の御心が何であるかを感じる前に自分がどうしたいか、自分の欲求が神様であり燃え盛る火(炎)になってしまうんだな、と感じました。いや、自分の火が神様の御心にかなっていない、そういう判別すら鈍感になってできない傾向になりやすいんだな、と思いました。
     
    ものを作る上で火は大切な資源です。食べ物でも生ものも美味しいものもあるけれど、そればかりでは飽きてしまう。火を使うことで煮たり焼いたりいろんな料理ができる。美味しくなる。これは人間も同じだと。
     
    たまたま今、日本は冬なので本当にイメージしやすいですが、火の暖かさがなかったらどんなに辛く苦しい毎日になってしまうだろう。それは、私たちの心も同じで、神様から燃え盛る熱い命(火)をいただいてたましいも燃えていないと、困難な世の中にでは打ちのめされて傷ついて帰るだけになってしまうかもしれない。
     
    ああ、神様、最近の私は心身ともにすっかり冷えきっておりました。
    あなたの燃える熱い思い(火)を頂戴し、先の見えないこの世にあっていろんなサタンの誘惑や試みに打ち勝っていけるよう、そして主のご用のために力を尽くしていけるようにどうぞ導いてください!
     
    日本FEBCの働きにも神様からの熱い祝福と恵みが降り注がれるよう、祈ります。

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