ぜひ皆さまとご一緒に考えることができたらと思うお便りをいただきました。
洗礼を受けてから、クリスチャン以外の人と上手く付き合えなくなったように感じます。
特に、違う宗教を持っている友人や親戚を受け入れられなくなってしまいました。
こういう方々とどのようにお付き合いを続けていけばいいのでしょう。
最初このお便りを読んだ時は、
今までどおり普通にお付き合いすればいいんじゃない?
と思いました。
でも、何度か読み返しているうちに、少し違う思いが湧いてきました。
今このかたが感じていらっしゃる戸惑い、そしてFEBCに投げかけてくださったこの問いは、実はとても大切なことなのではないか?
教会に行けばクリスチャンがたくさんいるし、FEBCではイエス様を信じている人たちの話をたくさん聞けるけれど、
この日本の社会では、イエス様を信じている人はほとんどいません。
イエス様を信じ、イエス様に従って生きていこうと思って洗礼を受けたときから、
周りの方々との関わりに、
イエス様を信じる前には感じなかった違和感のようなものを覚えたこのかたの問い、
ぜひ皆さまとご一緒に、大切に問い、考えられたらと思います。
自分はこうしている、こう思う、
自分も同じことに悩んでいる、悩んだことがある
あるいはこのお便りから新たに気づいたことなどなど、
皆さまの声をコメントにお寄せください。
このコメントは2017年1月13日(金)まで受け付けています。
クリスチャン以外の人と関わる度に、心に色々な矛盾や葛藤を抱えているようにお察しします。
そのことに向き合えば向き合うほど、苦しく感じたり、辛くなってしまうのではないでしょうか。
その悩み、苦しみに寄り添って、適切な時に介入してくださる方が主だと思います。
すぐには解決しないことで、しんどかったり歯痒いかと思いますが、様々な経験を通して教えてくださるのではないかと信じています。
【追伸11】-他者との関係は「自己受容」から‥-
今日は少し異なる視点から‥。(ご紹介)
『人は、
自分のことを受容できる度合いに比例して、
他者のことを受容できるようになります。』
或る流派の心理学書籍に書かれていた言葉です。
私には、聖書の教えと何ら矛盾していないように感じられます。
【追記12】-「自己受容」とは?-
『洗礼を受けてから、クリスチャン以外の人と上手く付き合えなくなったように感じます。』
…先ず、この感覚(感情)を(否定せずに)認めることだそぅです。
そぅすれば、相手の感覚(感情)も(否定せずに)認められるようになるらしぃ‥。
【追記13】-「自己受容」とは?-(その2)
自己受容とは、
「見つめる自分」と「見つめられる自分」が
とてもイィ関係になっている状態‥。
…これは、<神様と私がとてもイィ関係になっている状態>と
置き換えることも出来るかも‥?
【追記14】-イエスは‥-
どんな状態の(感覚(感情)の)私達をも、
“決して見捨てない!”
いつも‥私達(そして、あなた達‥全ての被造物)の
“最強の味方”です。 アーメン‥
たぬきさん後半です。 お目に留めていただき感謝です (*^o^*)
第3の場合ですが、飲酒・喫煙といった嗜好や食習慣をはじめとする生活習慣の問題、あるいは社会問題をどう捉えるか(社会倫理や道徳・生命倫理・環境問題・差別問題やハラスメント問題・経済倫理)というような内容を勝手に想像しました。ズレていたらごめんなさい(^_^;)。
それらは聖俗二元論で語れないし、分かち合ったり祈ったとしてもそう簡単に解答は示されず、妥協点が見つからないかもしれません。が、クリスチャンとして持っておくべきある程度基本的な考え方のポイント、例えば「主キリストを信じる信仰は捨てない」「明らかに福音宣教と逆行していることは避ける」「自分自身を大切にする」等はあるように思います。
さらに私は、解決の糸口の一つに「裁きと赦し」という視点があると考えました。すなわちここで言う赦しとは、違和感を感じる人たちの考え方を尊重するが、自分自身が感じる違和感そのものをも否定しないで一応受け入れた上で、Win-Winの関係になるようなすりあわせを模索することではないかと考えました。そのヒントになる番組として、井幡清志先生のどこへでもどこまでも―ルカによる福音書―「持っていかないという備え」、早矢仕宗伯先生のイエスの風に吹かれて~みことばお散歩トーク~「裁きの石を捨てて」、長倉崇宣さんのFEBC HANGOUT!「迷うの、そこじゃないでしょ」が参考になるのではないかと考えました。興味があれば検索される事をおすすめします。
また、私はあるプロテスタントの方から「自分の気持ちがついてくるとはキリストの「平安」に当たる」と聞いた事があります。そしてある神父さまからは「平和とは、中身があってしかも秩序正しく、その中でそれぞれの存在の持つ意味が完全に実現されている状態で、「平和」の反対語は争いや戦争ではなく「無秩序」、その意味は混沌・空虚・意味のないこと・中身のないこと」と聞いた事もあります。祈りの中でこうしたことを基準に問い直してお互いの距離感とか境界線とか、関わる内容や方向性を見直してみるのも助けになるかも知れません。
最後に皆さんコメントでおっしゃっていますが、「違和感を感じる人たちをも神さまは等しく愛されている」「その人との関わりもまた神さまのご計画の一部」という気づきは、こうした問題に直面するに当たって、今の自分には解らなくても立ち返るべき大切な視点であると思いました。
かつてFEGCで番組を担当されたことのある神父さまに「たとえ自分がそうは思えなくても神さまは○○さんと共におられますと取り敢えず祈る」事を勧めていただいた事があります。これは言い方を変えると「あの人の言動は好きではないけど、それでも尊重します」になるのでしょうか。そうすることで払拭できない違和感に支配されている今の気持ちを逃がす事が出来る効果と、神さまが共にいてくださる神秘に自分もその人も結ばれるという一挙両得の効果が期待できる事を私は今まで何度か経験してきたので、そういう方法も役に立つかも知れません。
ここまで読んでくださった皆様、本当にお疲れさまでした(笑)長文にお付き合いいただきありがとうございます m(_ _)m
そしてこのような黙想と分かち合いの機会を設けてくださったFEBCスタッフの皆様、また様々なコメントをとおして今までの自分を振り返って考え、祈る機会を与えてくださったリスナーの皆様に心から感謝いたします m(_ _)m
2017年が皆さんにとって恵みの年となりますように (^_^)v
正直なところ情報が少ないためお便りの方のお困りの点が解らず、様々な角度から考えたら長文で、しかも重くなってしまいました。前半後半に分けて投稿します。 読んでくださるかた、ごめんなさい (^_^;)
具体的にいうと、その問題の背景が以下の3点どれかによって違ってくるように思います。
まず教会共同体の方針というか、外面的制約「洗礼を受けたものとしての節度ある行動」を強要されているのか。
あるいは見える制約はないが、自分自身の生活文化としての振る舞い方に関する心理面での葛藤なのか。例えば親戚や地域、職場など教会以外の人たちとの関わりを今後も大切にしていきたいが、キリストを信じ受け入れた今、それまで当たり前にやって来た慣習的行為を同じように継続していく事に迷いが生じている。その事について教会員や牧師先生に相談しても返答が曖昧、もしくは話題を避けられるので悶々としている。
さらには自分の霊的側面なのか。わかりやすく言うと今まで親しくざっくばらんに話せた内容で、だんだん話があわなくなってきた。自分にとって大事な人なので疎遠にはしたくないが、そのことにより正直関わるのが億劫になってきた、あるいはだんだんと話の解ってくれる人が減ってきた。
最初の場合は、求道者であるときには気づかなかった教会内部事情が見えてくるようになった事で、自分の信仰のあり方と日常生活との融合に関して、所属教会の現状とのギャップを生じてきてる可能性があります。この件について、私は経験がないのでなんとも言えません。
第2の場合はプロテスタント教会の場合は教派や司牧者によって違うようなので参考になるか解りませんが、カトリックの考え方の例を挙げてみます。
他宗教の宗教行事への参加のあり方は積極参加と、相手に表敬の態度を示すための「参列」と呼ぶ受動的参加を区別します。また信仰を含む宗教的行為と信仰を含まない社会的儀礼を区別します。
例えば他宗教の儀式で葬儀・法事を例にとると、参列し故人の冥福を祈る事はキリスト教的な愛のわざと考えます。その中での焼香・献花などの行為は特定の宗教の儀式というよりはどの宗教にも共通の儀式と捉え、その時に心の中で「神さま、この方に永遠の安息をお与えください」と祈る事などが推奨されています。
同じような関わりの例が地域社会での行事・風習にもあり、それは井幡清志先生がおっしゃる「日本の人々の風習とか伝統の中には、聖書やキリスト教とは直接結びつかなくても、健康とか平安を願う人間の祈りが根底にある」と同義であると捉え、宗教宗派という垣根を超えてすべての人々と丁寧に向かい合う中で、相手の心と響き合う何かを見い出すための一つの関わり方を示しているものと、私自身は考えています。
たぬきさん後半に続きます。良ければ引き続きお付き合いください (*_ _)人
【追伸10】-世の光-
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
(マタイによる福音書 5:13-16) 『聖書 新共同訳』より引用
私の周辺には外国人が多く、宗教も様々です。カトリック、ロシア正教会、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教…など、宗教のマーケット状態ですが、みんな仲良く交流出来ています。
彼女、彼らは、ストレートに、「あなたの宗教は何ですか?」と質問して来ます。
そして、相手の宗教に合わせて会話を進めるのです。 これは日本人同士では、ほとんど
タブーな会話ですよね。(^^;)
相手の宗教を、聞かない、知ってもあえて会話にしない、…これは文化の違いなので、
仕方がないのですが、多宗教社会の彼女、彼らからすると、相手の宗教を知らないで
どう対応するのか?…と不思議に感じるそうです。(^^)
とても具体的で分かり易い話でした!
私も今日、日常の身の周りの事柄から、何か相応しい具体的な一例を挙げてみようかな‥と思ってこちらを覗きましたら、korin さんから既にコメントが入っていてホッとした次第です。
たぶん日本には、
・タブーにする ・曖昧にする
・空気を読んで、取り敢えず、何となくその場に合わせる
・余り目立たないように‥、ソツなく‥
‥、‥等々の対応をすることが、他と“上手く付き合う”ことと認識されている下地(=文化?)があるように思います。
…でも、「それって、ホントぉ~に、誠実に相手を愛し、理解することなのでしょうか? それで互いに喜べますか?」って、疑問に感じても、不思議はないですょね‥。
クリスチャンには、御言葉を通して、それとは異なる立ち位置が示されているように思います。
御名が崇められ、全ての被造物に祝福がありますように‥。アーメン‥
【追伸9】 -めだかに教わる-
‘足りないもの’に目を向けるのがひとの知恵であり、かつまた不幸の源でもある‥
<補足>
私はめだかを好んで飼っています。実は、他にもいろんな魚を飼っていますが、特にめだかの環境適応性と忍耐強さには目を見張るものがあります。…その分、意外な弱さ(ある種のストレスには非常にデリケートなところ)も併せ持っているのですが‥。
めだかは文句を謂わない。
驚く程にキャパシティーが広くて、例えば‥冬は氷の下でも、夏は生温い程の温かい水の下でも、生き抜いて見せて呉れます。食欲も繁殖力も旺盛で、異種交配して実に多彩な姿に変わります。
人間よりも余程、変幻自在に感じますし、神の恵みを素直に受け取って、生きる喜びを謳歌しています!
私は、聖書に親しむようになってから、これらの事柄に気付き、同じ神様の被造物として喜べるようになりました‥。
【追伸8】-御心を訊ねて‥-(その2)
イエスは決して私たちと“上手く付き合って”はいなぃ
…と、私は感じている
【追伸7】-御心を訊ねて‥-
怪我だらけの人に親切にしたサマリアの人‥
それは決して“上手く付き合った”ワケではなぃ
実に淡々としていた
…と、私には感じられる
‘隣人’とは、決して“上手く付き合う”人達のことではなぃ
…と、私には感じられる
【追伸6】-むしろ“下手に付き合う”ことを覚えた‥-
“上手く付き合う”‥意味を感じなくなりました。
しかし、主と共に‘心から(足を洗うように)愛と最善をもって相手に仕える’‥「新たな立ち位置」を示され、喜んで祈り求めるようになりました。
より正直に、信じるままに‥。自分らしく‥。
なかなか出来ていないことの方が多いような気もするのですけれど‥。
…それは、むしろこの世的には、“下手に付き合う”‥ことの方に喜びを覚えてしまった‥とも云えるかも知れないと思うのです。
“上手く”なくてイィんだ‥。
(自作) 【詩】自分の‘ものさし’
それぞれが、
神のものとは異なる
‘自分のものさし’を
振りかざす
罪
肉の想いを捨て、
思い煩わず
主に従えますように‥
アーメン‥
わたしも信仰を得て数年は、同様の感覚に悩まされました。
今思うと、異なる信仰をもつ人、キリスト教に反感を持つ人に自分の信仰を奪われることを、無意識に恐れていたのかもしれません。
当時は大学生で、様々な宗教や思想団体からの勧誘が多い環境だったのも一因でしょうか。
しかし、そのような人々の無理解や攻撃的な言動に傷つくことはあっても、そこに信仰を奪う力は無いと次第に分かり、極端に防御する必要を感じなくなりました。
もし、質問者様が『違う宗教を持っている友人や親戚を受け入れられなくなってしま』った原因が、わたしと同じであるなら、時間と経験が解決してくれる部分は大きいと思います。
あれから三十年、すぐには得られない答えを祈りながら待つことの大切さを実感しています。
【追伸5】-新年の祈り-
★人間はアテにならないし、私自身も弱い‥
(受け容れる=現実を知る=練られる)
神こそが「信頼出来る‘愛と真理’」!
(喜ぶ)(委ねる)
★闇を見ても呑み込まれないようにしよう
(光を信頼して仰ごう!)
(先ず、神の国とその義を求める)
(神に足を洗って戴いている)
★(神の名の故に..) ひとを7の70倍赦そう
(私達も足を洗い合う)
「御心に適う者として浄められますように..」
★傾聴:神を仰ぐトライアングルになろう
(対等に神の御前で立とう)
(『あなたはどぅか?』に応えよう)
私は20代の頃から教会に行っていて、平日は仕事、日曜日は教会に行っていて、友達と遊ぶこことも、クリスチャン以外の人との付き合いも面倒になってしまい、だんだんと疎遠になってしまいました。その後、仕事や、教会での人間関係に疲れてしまって地元に帰ったのですが、何の実りもない孤独な人生を実感しています。 こんな人にはならないで下さいね。
ちなみに私の数少ない親友は違う宗教を信じています。私は以前、キリスト教系のカルト宗教に入っていたので、友人の話を聞いていて、ちょっと似てるよな気もするのですが…、信じる気持ちは大切だし、これがこの人を支えていると思うと何も言えません。友達として大切に思っています。私の弱さかもしれません。とても難しいです。
その都度祈りながら進んでいくのがよいのかな? クリスチャンでも周りの人とよい関係で生きてる人もたくさんいるし、結局は私の人間性なのかも?と思います。それを祈りつつ、主に育てられてこれからの日々を生きて行きたいです。
きたちゃんさん、初めまして。
自分もノンクリの人たちに付き合いますが、友達は多くありません。
信仰が長くなればなるほど、ずっとお酒がないと日々のストレスを発散できない世の人々とクリスチャンは水と油だなあ、と思うことがあります。
それと、孤独だな、と感じる時ほど神様と本当の意味で交流できるチャンスです。
footprint(あしあと)というポエムがあります。「あしあと 詩」で検索してみてください。あなたが「ひとりだ」「孤独だ」と感じているとき、天の父なる神様が背負って歩いていてくださる、というわけです。
天の父なる神様は、私たちが自分の力で頑張るのは嫌われます。
「人間がより頼んでくれることを期待して試練を与える」というのが天の父だ、と聞いて、ずいぶんひねくれた神様だなあ、と思ったことがありました。
きたちゃんさんにもいろんな経験を通じて同じような立場の人たち、苦しんでいる人たちの側に立てる賜物を与えられているのですから、そんなに自分を卑下しないで、あなたを愛して止まないお父様と一緒に歩んで恵みを受けましょう。
祝福を祈ります。
20代の頃、他宗教の熱心な信者である実家の人々と、信仰上の問題で激しく衝突しました。FEBCと出合ったおかげで、一度は和解(?)したものの、その後、どうしても受け容れられない出来事があり、再び疎遠になっていました。このままではいけないなぁ・・・と思っていた矢先、紹介されたお便りと寄せられた皆さまのコメントを読ませていただき、たくさんの気づきを与えられました。ありがとうございます。
私の場合、特に苦手なのが母で、昔から(それこそ、ねこみるくさんが苦手なご親戚のように)「何事にも遠慮なくズケズケと竹を割ったような物言い」をする人でした。でも、ねこみるくさんが、「最近、その人の持っている賜物に気づき」とお書きになっているのを読み、ハッとしたんです。私はずっと、母の「賜物」を意識したことなんてなかった、いつも悪いところばかりに注目していたって。
クララさんの「あなたが違和感を感じる周囲の人たちをも、神さまは等しく愛されている」というお言葉も耳に(そして心に)痛かったです。母も、神さまにとって愛しい子のひとりで、素晴らしい賜物を与えられている存在なのですね。そう思ったら、素直な気持ちになれて、1年ぶりぐらいに、母に電話をかけてみたい、という思いが湧いてきました。神さまにお祈りしてから、勇気を出して、実家に電話をかけました。ほんの15分ほどでしたが、不思議なほど穏やかに、語り合うことができました。お手紙をくださった方、ねこみるくさん、クララさんをはじめ、コメントをお寄せくださった皆さまのおかげです。本当にありがとうございます。
「どんな人も、神さまに等しく愛されている、その人だけの賜物を与えられている存在」であることを、日々、心に留めて、すべてを神さまにお委ねして生きていけますように。
お手紙の差出人さま、神さまは何もかもご存じですから、お互いに、安心して、祈り続けましょう。
私は、クリスチャンではない友人の場合は大丈夫なんですけど。
クリスチャンではない親戚の1人に、苦手な人がいました。
その人は、何事にも遠慮なくズケズケと竹を割ったような物言いで、苦手でした。
しかし、最近、その人の持っている賜物に気づき、猛省しています。
結局、サマリアの人に親切にされていた怪我だらけの人は、私でした。
主に助けて貰わなければ、何も出来ません。
また、その親戚が苦手ということ。すなわち、怪我だらけの人をほったらかして逃げた、パリサイ派の人は私です。
同じクリスチャンの人でも、上手く付き合えない場合もありました。
主が、今はギクシャクしている間柄を、きっとスムーズにしてくださいます。
祈り合いましょう。
アーメン..御名によって.心を合わせ、私も共に祈らせて戴きます。
教会によっては、他宗教を悪霊的に考える処もあて、神社に油注ぎして清めたり狛犬やお稲荷さんの狐像壊したり、各人の家に代々ある仏壇、神事のものを処分しようとか、こういう教えのところに行っていたら、真面目な人ほど世間付き合いに悩んでしまうでしょうね。 「イエスさまの教えではみんなにどんな人にも寛容に、だよね?」と言われても、更に戸惑ってしまうでしょう。このご質問の方も、ご自分の教会教派からの縛りや影響はないでしょうか? 偏狭(と敢えて言いますが)なここの教えが正しいのだーと思い込まされていたなら、それこそ深刻な問題でしょう。寛容な考え方の教会もたくさんありますよー
自分自身やキリスト教にたいする特別意識(選民思想)が
あるのではないかと感じます。。
洗礼受けたばっかりとか、そういうときは、
やはり「特別感」に浸りやすいような気がする。。
特別感という名の色メガネを外せば、
もっとラクに周囲と関われると思います。
キリスト教だから敬虔に生きなくてはいけない、と思うと難しいです。
ましてやクリスチャンだから未信者とは付き合えないとか感じると危ないです。
クリスチャンも普通の人と同じです。ただ生き方の基礎に【聖書】を置いているだけです。
我々から神の教えを取ってしまったら何も残らないんですね。
ですからキリストに導かれてクリスチャンになったわけですので、これからもいろいろな矛盾を感じ悩むでしょうが、神様の教えにしっかりと根を張って生活するのが最善です。そこから他の人との距離感や交流の道も築かれて行くでしょう。
わたしも教会に行き始めたころ、そんな気持ちになったかも、
とふと思い出しました。
教会は安全な場所で、そこに集う人たちも自分を傷つけることはなく、
教会にいる限り自分は守られている、という感覚。
この感覚があると、教会の外にいる人たちとは、
関わり合いがすごく難しくなるし、
最悪、個人的な偏見や差別へ向かってしまうのですよね。
端的に言って、
キリスト教の人以外とは関われない、という思いはワナです。
冷静に考えてみれば、きっとわかるはずだと思います。
クリスチャンの人でも話が合わなかったり、
考え方や生き方が違っていることもあります。
たぶん洗礼を受けて日が浅いから、
そんなふうに感じるのかな。。
クリスチャンであってもなくても、そんなに関係ないと思います。
先入観をもたないことが解決策となるかもしれません。
私も同じ気持ちになるかもしれません。 でも、迷ったら私はマリア様にお縋りしてしまう
でしょう。 いつもそうしてなにかしらと良い方向に向かうような気がしますね。
神様の御計画にお委ねしてみることが多いですね。
【追伸2】-イエス様からご覧になれば‥-
私も異邦人の最たる者の一人だろう‥と思うからです。
【追伸3】-一部抜粋:関根一夫牧師【日ごとの糧】2016.12.29より..-
・・・必要としている人たちに神の祝福を届けるべきなのに無関心を装ってしまっている私たちなのかもしれません。
神の助けは、そこまできているのに、それを届ける役目を放棄してしまっている私たちはいないでしょうか。それは「伝道」とか「宣教」という言葉ではなく、「善意」「優しさ」「支援」「赦し」「存在への熱望」などの分かち合いから始まるのだと思います。そして、それも「上から目線ではなく、同等の人間として分かち合われる必要があるのだと思います。
人を「伝道の対象」としてしか見ていないのは、間違っています。
どんな文化的背景、宗教的背景があろうと人間の存在といのちは尊重されるべきだからです。
神は、キリスト教に入信した人だけを助けようとしているわけではないはずです。
だとすれば、私たちがそういう色眼鏡で人を見てしまうことは慎まなければなりません。
キリストの心は、失われている人たち全体に対する救いを願っているのです。
【追伸4】-ルカ19:10-
『人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』
もしかすると、それを邪魔しているのは、、中流意識の中にぬくぬくと生き、・・・
私も“上手く付き合う”‥ことは出来なくなりました。
でもそれは、それまでのように“上手く付き合う”ことに気を遣って変に疲れてしまう空しさからも「解放された」‥ことのように感じます。
そしてむしろ、境界線(適度な距離感)を保ちつつ、無理をせずに、相手を“受け容れられる”ようになった気がしています。(変に気を遣って頑張らなくなった‥主に委ねることを覚えた‥とでも云うのでしょうか‥?)
その時々に応じて主に訊ね、主が間に入って下さって‥、主と共に‘心から(足を洗うように)愛と最善をもって相手に仕える’‥「新たな立ち位置」?をイエスから教わり、少しだけでも覚えてこられたからかも知れません‥。より正直に、信じるままに‥。
【追伸】-先ず‥-
先ず、日々、私の足が洗われている‥と云うことです。
教会の保育園で仕事をしています。
クリスチャンとノンクリスチャンの使命感の違いはありますが、人間としての強さや弱さは同じだと感じています。
クリスチャンの使命感はともすればパリサイ人のようになりがちな危うさもあります。
イエス様の弱さに寄り添う姿、愛の教えには、ほとんどの人が共感してくれるように思いますが、処女懐胎だの復活だの霊だのという話になれば、未信者の人は受け入れられないようです。
信じる道を選ぶかそうでないか、結局はそこで、人知を超えたものを感じます。信じて生きてみてはじめて神の力や働きを知るのですが…。
信じられない人は、今の科学、経済優先の世界にあって普通なのです。
私は、そのことを押さえて未信者の方とおつきあいします。クリスチャンがクリスチャン以外の人と離れてしまうのも、どこか違うように思います。
ママ さん 貴女様 いつも いつも 精一杯 ガンバッテ ガンバッテ ・・・ ママ さん に 神様の 御祝福を アーメン タクさん より
自分もryukaさんと同じく、まず神様にどうすればよいか、お祈りしてみればいいと思います。そのうえで、明確な答えが見つからなくても、今まで通りの接し方であってもそのうち答えが与えられると思います。
自分の場合、受洗したのは20代のころで、まあ今思うと血気盛んだったこともあり、親戚のおばさんとか自分がクリスチャンになったことを心配していろいろ言ってくれたのに逆に論破しようなんて思って気まずい関係になったりしました。クリスチャン自体が少ないから、ノンクリの人から見れば身近にいないので心配になってしまうんでしょう。得てして、クリスチャンとして名が通ってる人はすごく熱心だったりしますもんね。
自分の場合、親しい友達やいとこや親戚の前でクリスチャンを名乗ることができましたが、その一方で何かを変えたかというと変えませんでした。意識して変えたということはなかったということです。(親戚の)法事に行けば、ご焼香をします(これは異教の宗教行事にあたるということで禁止する教派もあるみたいだけど、自分の場合は「天に宝を積む」気持ちで、故人に精いっぱいの気持ちを表すということでやらせてもらっています)。法事に呼ばれてそういうことをしないということがキリスト者としての証しになると考える人もいるようだけど、遺族の側から見て、法事に参加したのにそういう行為をやらないというのが果たして愛のある行為なんだろうかな、と思うのです。
職場でも同様です。自分の場合、職場でもクリスチャンだと表明したことがありましたが、多くの人たちはそういうのあんまり関係ない感じでした(表明する前は「隠れキリシタン」みたいな状態で生息してました)。気負うほどのことでもないのかも?と思った次第です。
なので、職場の飲み会にも行きます。付き合い程度に飲みます。ただし、下戸なのですぐウーロン茶にします。ノンアルコール飲料にすることもあります。20代のころは2次会・3次会まで付き合いました。理由は先輩方のいろんな話が面白かったのと、これからの会社生活に有用だと思ったからです。
みんな(ノンクリ)、お酒を飲むと本当の姿になるのです。本音を語るようになるのです。そういうの、飲み会とかに行かないとわかりません。普段は仮の姿で生活しているのか!と思うくらい変わる人もいます(笑)
自治会長やっていた時も付き合い程度に町内の飲み会に出席しました。みんな酒飲みなのでとても同等には付いていけませんでしたが、こういう場に出てネットワークを作っておくのもありなんではないかな、と思いました。
クリスチャンの歩み全般に言えることですが、迷ったとき、悩んだとき、「イエス様なら、こういうときどうするのかな?」という視点を持つのは大切なことだと思います。あと、聖書を開くと、御言葉に答えがあったりします。
あとは相手が私を選別してないのに、一方的に相手を選別するのはどうなんだろうかな、と思うのです。でも、神様・イエス様・聖霊様が悲しまれるようなことはしないように。もっとも、守られるので大丈夫だとは信じているんですけどね。
違和感というのはわからなくもないですが、
むしろ周囲に心を閉ざしているのだと思います。
(自分と考えが違う、自分のことを理解してくれない、など)
メッセージのくわしい内容や暮らし方などわからないので、
なんともいえないですが、
キリスト教の本質をかえりみれば、
おのずと導かれるところがあると思います。
ズバリ、結論から申し上げます。
神様に祈って拠り頼んでください。
ご相談のメールに書かれたことそのまま神様にお話しして、あなた様の思いをまず神様に知っていただいてください。
そして「異教の方々を愛せるように、私を変えてください」と心からお願いしてみてください。
私も毎朝「隣人を自分自身のように愛せるように、神様とイエス様の大きな御愛で、私を満たしてください。私の愛だけでは、小さすぎて隣人を自分自身のように愛することができません。どうかお願いします」と祈っています。
「隣人」とは、もちろん異教の方や無神論者の方も含まれます。
毎朝、心からの願いを祈ることによって、神様は私をどんどん変えてくださっています。
すぐにその違和感は無くならないかもしれませんが、あなた様もノンクリスチャンだった時は、何か別のものを信じたり、拝んだりしたことがあるのではないでしょうか?
私はそうでした。何も考えず神社で拝んだり、お守りを買ったりしていました。
そんな私も今ではイエス様と出会い、大きく変えられてイエス様を一心に見つめるようになったのです。
どんな形で人々が、イエス様と出会うかわからないのです。
一番怖いのは、その違和感が高じて排他的になってしまうことだと思うのですね。
正直、私も「仏様が…」とか「観音様が…」と言うお話を聞くと、やはり違和感を感じますが、あくまでそのお話に違和感を感じるのであって、そのお話をしてくださる「人」には違和感は感じません。会話をしていくうちに、その方の人柄の素晴らしさを知ることもできるからです。
「変えていただきたい」と言う願いを持てなかったら「願えるように変えてください」と祈ってください。
クリスチャンとも、ノンクリスチャンとも、良い関係を築けるなら、本当にそれは神様の豊かな恵みであり、とても素敵なことだと思います。
まずあなた様を愛しておられる、あなた様の父なる神様に、なんでもお話しして、お願いして、神様と親しい関係を築いてくださいね。
追伸 もし既に祈っているのだとしたら、差し出がましいことを言ってしまってごめんなさいねm(_ _)m
わたしから、何かを言おうとか、提供しようとか、つきあおうとするときはつっかかりを感じるけれど、その人とのかかわりもまた神さまの贈り物と思いたい。これをしようあれを言おうという能動が取り払われていくとき、かかわりのなかで人々が逆にいろんなメッセージを運んできてくれたり、自分を開いてくれる気がする。
クリスチャンであることを開示して生きています。
もし、誰かがほめてくれるとしても、わたしという人がほめられるのではなく、ちょっとのよさなら「クリスチャンってちょっといいところあるんだな」って思っていただくことが、わたしの生きがい。
開示して生きていくことは、わたしが不誠実なことをしてイエスさまのお名前をけがすことはできないという自戒でもあります。日々悔いあらため=「方向調整」です。
クリスチャンになったころは、同じような気持ちを持ったことがあります。でもだんだん、神様につながる道がそれぞれ違う人がいるという風に思えるようになって、付き合えるようになりました。神社が好きで御朱印を集めている彼女につれそって神社にもつきあったりしますよ。神様をいっぱい集めるって言ってるのがほほえましく見えます。キリスト教は唯一神教ですが、排他教ではありませんから。その人の信じるものを尊重するようにしています。
私が初めてキリスト教の教会へ行った時のことを思い出しました。当時私は、高校三年生。家でキリスト教の信者はいませんでした。親には、日曜日に教会へ行くよりも、勉強したり、うちの手伝いをしなさいと言われました。私は当時、(今もですが)あまり学業の成績が良くありませんでした。日本人の普通の宗教観の両親は、宗教活動よりも、もっと学生の本文は勉強にあるという考え方でした。その両親に、私はうそをついて、「友人と一緒に勉強してくる。」と言って、当時通った教会に毎週日曜に行きました。そして、礼拝が終わると、まさに、日本的な宮参りのごとく、うちに帰りました。交わりも奉仕もしませんでした。そして、そこの教会で洗礼を受けようとしたとき、事件が起こりました。その教会の牧師先生に、私は、自分が洗礼を受けてクリスチャンになることを、家族に説明していただこうと、うちまで来てもらいましたが、家族の大反対に会い、牧師先生は追い出されるは、私は、勘当されてしまいました。その後、55歳になるまで、約40年間、放蕩生活をしました。しかし、2012年12月2日に、念願の洗礼を受けることができました。なんとイエス様は約40年も、私を待っていてくださったのです。だから、あなたも、安心して、クリスチャン以外の方たちと今までと同じように、接すればよいと思います。イエス様は、そんなことで、あきらめたり、見捨てたりはしません。かえって、あなたの周囲のまだ、イエス様を知らない方たちのために、イエス様はあなたを祝福して任命されたのかもしれません。私は、かの40年間の放蕩生活で、その放蕩のむなしさやにみくさを、学ぶことができました。今、私の息子は高校生です。私が、放蕩生活を始めたときと同じ年齢になりました。彼が、完全に悪魔に心を売ることなく、若気の至りの失敗をできるだけ軽くしようと、イエス様に、毎日祈りおゆだねしています。私の息子は、小学生の時は、キリスト教の添削指導(日本CEF)を、私の影響で受けていました。そして、その小学生過程を終了しました。しかし、毎日私と一緒に生活することはできない息子は、中学生の時には、「イエス様はもうおしまい」というようになりましたが、それでも、私は、教会の一泊修養会や、私の洗礼式にも、息子を連れて行きました。高校生になった今でも、教会のイベントには、息子を参加させています。私はこう思います。たとえ、あの芥川龍之介の「蜘蛛の糸」ではないですが、私の息子にイエス様が、関係を保ち続けていることを示すことがひょっとすると、私にイエス様から指示された命令かもしれません。私は、できるだけ息子の気持ちを大事にしつつ、イエス様とのこの細い関係を絶やさないでいこうと思っています。父なる神様の与えたフィールドで、イエス様の指示を仰ぎつつ、聖霊なる神様からの知恵をいただいて、お互いに、まさに、「イエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか!。」ではないでしょうか?ごめんなさい。若輩者が口幅ったく書き込みしました。イエス様のお名前で、アーメン!!
アーメン!
あなたが違和感を感じる周囲の人たちをも、神さまは等しく愛されているのだという気づきも大切ではないでしょうか。
「逃げ恥ロス」という言葉がありますね。火曜ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』も終わってしまいましたね。
人生の意義を見つめるドラマだったと思います。夫婦は共同経営者という考えはひとつの信仰の姿と思います。
人間を作ったのは神様だと思う我々も頑張りましょう。
神が人間を作った目的の一つにいつも喜んで生きていくというものがあったと思います。
私は身体障害により何もしてあげることはできませんが、
こんな姿を皆に見せるという使命は果たしていると思っています。
神の栄光が全ての人にあるように・・・。