神の言葉に聴き、神の言葉に生きる

説教も職業的にやろうと思えばできます。
注解書も参考書もありますから。
しかし、そのような「職業的な説教」は、いかにも牧師らしく語っていても、聴いていればわかります。

FEBC特別番組「今、遺すべき言葉として―加藤常昭・自伝的伝道論」の中で、加藤先生はこう語るのです。
ドキンとする言葉です。

「ああ、いるいる、心のこもってない説教する牧師!」と非難するのは簡単です。
でも、果たして自分はどうか?と問わされます。

もちろん、牧師ではない私は説教を語ることはありません。
けれども、聖書を読むとき、説教を聴くとき、本気で神の言葉を聴こうとしてそこに身を置いているか?
形だけになってはいないか?
頭で理解しようとしてはいないか?

この番組の中で加藤先生は、ご自身が駆け出しの牧師であったときのことを赤裸々に語っています。

準備ができず、手抜きで間に合わせの説教をした。
それでも、次の日曜日も信徒はちゃんと来てくれる。
そこに甘えが生じました。
牧師を「仕事」としてやればいいという甘えです。
けれども、「本当に大事なこと」がそこから抜ける・・・

私も、手抜きで間に合わせの信仰になってはいないか?
それでもちゃんとやっていけているように見えることに甘えてはいないか?
「本当に大事なこと」が抜けていないか?

87歳の加藤先生が、現在の日本の教会、そしてキリスト者に、どうしても遺さなければならない言葉として、ご自身の伝道生涯から語る伝道論。
あなたは本気で神の言葉に聴いているか?神の言葉に生きているか?と迫ってきます。


FEBC特別番組
「今、遺すべき言葉として―加藤常昭・自伝的伝道論」前半
加藤常昭(神学者、説教塾主宰)

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“神の言葉に聴き、神の言葉に生きる” への2件の返信

  1. のりぴい

    柔和が強調された説教であるが、結論的に「経験しろ」という意味か?
    私は身体障害2級で教会に通うが、社会的マイナスは幸せな主の祝福を受けるそうだ。
    私の様に身体障害が長いと神の祝福を待つ気持ちは長い。
    この種の疑問は持つ人が多いと思う。
    宗教は聖書の知識だけではダメで神の祝福を待ちたいと思う。
    この説教を聞いて、親父の言っていた「成らぬ堪忍するが堪忍」を思い出す。

  2. 理系です

    この番組、3回ネットで聴かせていただきました。
     
    卒直に言いますと、加藤先生の熱い思いが伝わってきました。しかし、現実の自分の生活にあてはめるとやはり難しいと思わざるを得ないところも感じました。
     
    まず1回目、番組の前半部分で「福音派は甘い」「教会の愛さん会の否定」というのがひっかかり、後半の話が心に響きませんでした。
    そこで、番組の記事をサイトで読んでからもう一度、番組を聞いてみました。誤解して聴いていたのがわかりました。さらに理解を深めるためにもう一度聴いてみました。
     
    加藤先生が87歳であることは知りませんでした。あと、うちの教会の名誉牧師のことや会社組織で高齢なのにいろいろ出しゃばって後任・後輩に道を譲らない、譲ろうとしないシニア世代の人たちになぞらえて、「そういうことなんじゃないかな」などと勝手に判断していました。お恥ずかしい限りです。
     
    しかし、戦時中に生まれ、大変な時代、思想が180度方向転換する時代、そして戦後の復興、高度成長時代、バブルから今にいたるまでの時代を生き抜いて来られた先生の力強さ、熱い思い、そして何よりもイエス様が大好きで、福音宣教のためなら力を惜しまないというその姿勢に感銘すら覚えました。
     
    ただ、生まれた時にはもうすでに何でも手に入るような恵まれている環境にいる私たち(自分は今50代ですが)より若い世代、バブル時代も知らず、どちらかというと将来に希望が持てないような時代に生まれ育ち、そういう時代に神様の御言葉を伝える熱い思いを持ち続けてやっていくのは難しいかなぁ、などと思ったりもします。
     
    しかし、加藤先生が鎌倉雪ノ下教会でやっていた教会の指命を果たすための、あうんの呼吸でも主従の関係でもお世話する教会でもないように、きちんとした規則やルールを作ったり、信徒全員がそれぞれ何かの奉仕で教会を支えるというのは今の時代でも必要なのでしょう。牧師の強いリーダーシップがないとできないのは当たり前ですが、信徒の側も精神的にも信仰的にも「おとな」になって、神様のご用のために、福音宣教の御業を果たすために、教会の牧師や長老そして信徒が一丸となって進んでいかなくてはならないんだな、と思わされました。
     
    少なくともプロテスタントには「万人祭司」という考え方があるのですから。伝道・宣教は牧師のすることと一方的に押し付けておくのではなく、自分が伝道・宣教の御業ができないのであれば、その役割を担ってくださる方への祈りを「お役目」としてではなく心から熱心にやっていく必要を感じました。

    今回、このような機会を設けていただき、ありがとうございました。
    <後半>の番組も楽しみにしています。

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