クリスマスをもう一度、味わい直す

すっかりお正月も過ぎて、はや3日。
しかし、今回はあえてのクリスマスのお話です。

先生はあの日を振り返って訴えかけます。
「一体、どれだけの人が、救い主が産まれたという事を心から喜んだのだろうか?」

案外、こういう言葉を聴いても、「ふーん、そういう人もいるかもね」
って他人事みたいに感じる方もいるのではないかと思います。
私もその一人であったと思います。
だって、心から賛美もささげたし、しっかり説教も聴いたし…なんて。

しかし、先生がおっしゃりたいのは
そういった、教会にあるのが本物のクリスマス、というようなお話では無く。
むしろ、私が今、礼拝しているのは
本物のイエス・キリストだろうか?という問いでした。

私たちの為に来てくださった主イエス。
あなたは、一体どういうお方なのでしょうか。
何度も繰り返してきた問いの様で、
しかし、この探求の旅は常に新しい道を行くのだと思います。

この新しい年に、新しい心で、
クリスマスをもう一度、味わい直してみませんか。


関野和寛氏(日本福音ルーテル東京教会牧師)イエスにぶつかる—そこに響く言葉—
関野和寛(日本福音ルーテル東京教会)
毎週火曜日更新

第14回「超弱い救い主」ルカ2:1〜12

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“クリスマスをもう一度、味わい直す” への3件の返信

  1. シュート

    関野先生の番組「イエスにぶつかる」を聴いていると、疑問点があっても、だからこそ、という思いが入っている感じを受けます。
    以前の「イエスが与えてくれるこのビート」は、ストレートで分かりやすい内容だったのですが、この番組は、内容がより深化しているように感じます。例えると、前者が牧師ROCKSのような4ピースバンドのライブで、今の番組はアコースティックギターだけのストリートソロライブみたいな感覚です。これから番組がどんな内容になるのか、注目しています。

  2. 理系です

    そろそろ、FEBC Onlineのトップページから、このページが落ちるのを願って書き込みます。
     
    関野先生は「超弱い救い主」を強調するために、番組の初めから終わりまで「赤ちゃんだから」とおっしゃっていました。しかし、自分はこれにはどうも違和感を感じずにはおれませんでした。
    人間としてこの世に生まれてきたものはみんな「赤ちゃん」からスタートです。別に、イエス様でなくても、キリスト教の聖職者もこの世に生まれたときは赤ちゃんですし、異教(キリスト教以外)の教祖といわれる人も赤ちゃんとして生まれていますよね。赤ちゃん以外でこの世に来て宗教を開祖した人はいないでしょう。人間で赤ちゃん以外でこの世に生まれてきた人の存在を私は知りません。
    いや、むしろ、クリスマスのイエス様の誕生の意味は、神様なのに神様のままこの世に来られたのではなくて、ほかの人間と同じように、つまり人間と同じ経験を積むために、赤ん坊として赤ん坊から生まれてくださった、ということじゃないんだろうか、と思います。
    あと、自分は信仰歴が長くなってきたクリスチャンですが、「超弱い救い主」というより「超中途半端な救い主」という感じが否めません。「超弱い救い主」を目指していたのなら、本当に誰の目から見ても弱弱しいのが良かった。しかし、イエス様は中途半端に(神の子として)奇跡を行い、中途半端に当時のパリサイ人などを糾弾した。そして結局、決められたスケジュールで私たちのために(身代わりとして)死んでくださった。
    自分が若くて健康上も不自由なく暮らしていた時は、そういうのに感動したけど、今はちょっと不満だ。私だってイエス様のお着物に触って自分の病気を癒したいし治したい。この世の医学では治せないような病気ならなおさら。そんなことを願う人は多いと思う。
    それに答えるのが、聖霊様による導きであり支えであり、将来に約束された神の国には入れる権利だと思うのだが、信仰的に弱くなってくると、なんでもすがりたいと思うのは致し方ないと思うし、そう思えてくる。

    関野先生のメッセージは逆説的方向からの導き(従来にはないタイプの説教者)ということになるんだと思うんだが、この先生のメッセージが人気があるというのが、自分はどうもよくわからない(以前の番組で人気があったと番組記事で読んだ)。
    昨年秋から一応毎週聞いているけれど、なるほど!と思えたことが1回もない。
    なんか、最後の結論への持って行き方が番組の時間制限もあるのかもしれないが強引すぎて、毎回、もやもやしたまま終わる。
    もっとも、自分の頭が固いだけなのかもしれないけど。

  3. のりぴい

    あけましておめでとうございます。今日から仕事始めという人も多いでしょうね。
    キリスト教ははある種負けた人間の宗教という感が否めません。
    この前のコメント「成らぬ堪忍するが堪忍」の続きがあったので御報せします。
    「為せば成るなさねばならぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」。
    現在では米沢藩主・上杉鷹山の言葉としての「為せば成る為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり」の方が良く知られているが
    元々は信玄の言葉である)(Weblio事典)
    同様な趣旨の言葉を聖書に見つけました。
    神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。 (ヘブル人への手紙10章36節)
    今後もこのように我が思いをつぶやきますので宜しくお願い致します。

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