答え探しではなく宝探し

「どうして聖書は誰にでもすぐわかるように書かれていないのか?」

今回の「恵子の郵便ポスト」にお便りくださったかたのこの疑問、私もよく思うことです。
聖書を読んでいて、これはどういう意味?一体何が言いたいの?と・・・。

もちろん、聖書の言葉にひっかかって立ち止まり、問い、思い巡らすことは大切なことだと思います。
でも、そうやって何か自分の納得のいく「正解」を自分で探そうとしているのかもしれない・・・このお便りを聴きながらそう思いました。

この意味は何かとか、どういうことを言いたいのかとか、解釈し意味づけすることが聖書を読んで御心を知ることのようになってしまいます。
だから、これは勉強ではないとわかりつつ、勉強の感覚になってしまうのです。

勉強の感覚・・・私、勉強嫌いなのに、聖書を勉強しようとしてしまっているのだなあと思いました。
でも、このかたのお便りを最後までお聴きして、忘れてはならない大切な初心に帰らされた気がします。

イエス様ご自身が私に語りかけたくてしかないんだ!

いつの間にか聖書の中に「正解」を探そうとして読んでしまっていたけれど、聖書を読むことは答え探しではなく、宝探しなのですね。

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