創世記21:6
サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。
聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。 」
サラとアブラハムは、息子が産まれると告げられて、
そんなわけあるはずもないだろう、と笑いました。
笑っちゃうのも無理もないかもなあ、自分も笑ってしまうかも。。と咄嗟に思うのですが、
一方で、ここの「笑い」の中身がどういう感情なのか、
考えだしてみるとよくわからなくなってきました。
これは嘲りの笑いなのでしょうか?
そんな事できるわけないだろう!と神さまをあざ笑ったのでしょうか?
どちらかといえば、教会ではその様に教わってきたかもなあ、
という気がするのですが、結果的にそうなっているとしても、どうもしっくりきません。
どちらかといえば、老いた自分たちの能力への諦め、
そこからくる自嘲の感情のほうがストレートに伝わってきます。
でも、その笑いは何のためにあるのでしょうか?
致命的に傷つかないために、自分の心を守ろうとしているのでしょうか。
心理学的にはいろいろ言えそうですが、正直なところ、私にはよくわかりません。
でも彼らの笑いには、なぜか、「無理もない」とすぐに共感してしまうのです。
自分で自分の気持ちがよくわからない。
ぽっかりと空いた、底の見えない穴を覗いている、そんな感じです。
しかし、この不気味な笑いを退けて、
神様はイサクという息子を夫婦に与えられました。
「笑い」という、その直球な名前が迫ってきます。
まるで、「お前たちに本当の笑いを教えてやるよ!」
というような神様の勢いある想いを私はぶつけられました。
もはやあざ笑いをする必要はなく、
本当の笑いで塗りつぶされてしまった、アブラハムとサラ夫妻。
自分の底を見るのではなくて、
神さまのなされることを見ろ!という呼びかけを感じます。
私も塗りつぶされて、心から喜んで、歩んでいきたい。
そのことを今日は願い、祈りました。
(新人N)
なかなか続けられない聖書通読。
でも一緒に読む仲間がいれば続けられるかも!
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今日はサラとアブラムの間で生まれたイサクのお話である。
期せずして私にも初孫が与えられる。創造神の技を痛感する。
皆が笑顔になることを望む。初孫が与えられると同時に、
アブラムからアブラハムになったような祝福を望みます。
「サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。」(新共同訳 創世記18章12節)・・・この時のサラの「笑い」には、自嘲と諦めの入り混じった思いが含まれているように感じました。
でも、新人Nさんが紹介してくださったみことばに登場する「笑い」は、喜びに満ち溢れています。イサクを授かって、サラは本当に嬉しかったんですね。同じ「笑う」「笑い」という言葉なのに、状況によって、こうも意味合いが変わるものか、と驚かされました。
また、新改訳・新共同訳・フランシスコ会訳を読み比べてみたのですが、「サラは言った、『神はわたしに笑いをくださいました。このことを聞く者は誰でも、わたしとともに笑うでしょう』。」(創世記21章6節)というフランシスコ会の訳が、今回は、一番しっくり心に響きました。ふと、神さまは、私たち一人ひとりにも、毎日、喜びの笑いをプレゼントしてくださっているんじゃないかな、って思いも湧いたりして。(^^)