今日の「恵子の郵便ポスト」のお便りは、きっと何年経っても忘れることのできないお便りになりそうです。
「聖書初心者」とおっしゃる女性のかたからのお便りです。
一昨年から、ちょっとした事でマンションの強いグループから誹謗中傷を受ける事となり、ネットにも悪口を書き込まれ、つらい思いをしておりました。
「私はあの人たちを許す事ができるのだろうか」と悩んだ事が、私を聖書に向かわせました。
「敵を愛しなさい」という言葉は、とうてい受け入れられるものではありませんでしたが、何回も読んで、今は無理でも、この言葉を知った事に大きな意味があるはずと思うようになりました。
そして去年、夫にがんが見つかり、「どうか夫の命をお助けください」と祈りの毎日が始まりました。
そんなある時ふと「イエス様はどんなお方なのだろう。もっと知りたい」という気持ちが強くなり、FEBCのネットラジオを毎日聴く中で、聖書通信講座を知り申し込みました。
ヨハネ1章、何回も読み返して、「言」は神様がつかわされた「光」、それがイエス様という事がようやく私の心に入ってきました。
このかたへの吉崎恵子の声のお返事もぜひお聴きください。
【追伸2】-一部抜粋:関根一夫牧師 MACF礼拝説教要旨2017.01.22(主の祈り03)より..-
2) 神に赦されたものの祈り。
赦しがことさらに強調されているのは、イエス・キリストによる罪の赦しを思い起こしつつ祈ることを教えるためでしょう。
本当に「神に赦されているあなた」だからこそ「他者を赦しました。」と言えるはずですという考えが根底にあります。「私の負債、私の罪をお赦しください」と真摯に祈れる心がまず必要です。そこから他者への赦しが可能になるからです。
「赦し」とは何でしょう。
赦しは「何でもかんでも帳消しにして、感情的にならず、怒りを殺し、我慢して相手の存在を認め、相手の存在を喜ぶこと」というわけではありません。
「赦し」とはまずは自分で「報復しない」で、「裁定」「義しい取り扱い」「裁き」を神に任せることです。
裁きとは罰することではなくて公正に取り扱うこと。その裁きに委ねる。それが赦しです。
報復、復讐の機会を狙い続け、私恨を抱き続けるなら、心に平安はやってきません。
ですから、手を離して神の前に置くこと。置いて神に委ねて楽になる。それでいいのです。
気が済むまで、正しい裁きを神に願っていいのです。必ずしも報復ではなくて、物事の理非をきちんと正してくださるように願うのです。
感情的に包んで愛することを目標値にすることはできれば良いですが、できなくてもそれは承認済みです。そんな無理をしなくてよいのです。
ともかく自らの手をとどめて、問題自体を神に投げてしまえばそれで十分なのです。
「死ねばいいと思うほど、殺したいほど憎いです、でも、神様あなたにお任せします」
それが言えたら「赦した」ことと通じています。
3) 赦すことと痛み。
「謝罪と和解」をしっかり理解したいものです。
「謝罪」は「赦しを願う行為」ですから、赦してもらえるかどうかは、相手次第です。こちらは何も和解のための決め手はないのです。
神は私たちの「ごめんなさい」を受けて、イエス・キリストによる贖いにより、赦してくださいます。
でも人間同士の場合、こちらが謝罪し、相手がそれを受け入れて和解が成立するとしても、相手はこちらの思い通りに行動しないことがあることを承認する必要があります。
「私たちは赦します。でも、決して忘れません」とはシンガポールの首相リー・クアンユー氏の有名な言葉ですが、人間同士の赦しは、この言葉が明確に表現しているように思います。
たとえば、エルサレムにはホロコースト記念館、600万人のユダヤ人が殺されたことを忘れないための博物館、アムステルダムのアンネ・フランクの隠れ家など、ドイツの人にとっては足を踏み入れたくない場所があります。いわばドイツの人たちにとっては不都合な場所です。
でも、ユダヤ人の苦難を考えるとき、第三者的には有って良い場所だと思うわけです。ドイツはすでにイスラエルに高額の賠償金を支払っています。そしてドイツ人の入国が拒否されているわけでもありませんから「和解」は成立しています。
でももしドイツの首相が「すでに謝罪し、かなりの額の賠償したのだから、そして和解したのだからドイツにとって不都合なこのホロコースト博物館は取り壊してくれ」と言ったらイスラエルの人たちはどう感じるでしょう。赦すとは、それを喜んで取り壊すことではないでしょう。謝罪が和解をもたらしたとしても、だからと言って謝罪した側の不都合を全部なかったことにしてくれなどとは言えません。赦す側の痛みは、被害者にはコントロールなどできないものです。
これは「いてくれてありがとう」の心とどうつながるのでしょう。「ありがとう」という言葉は「積極的な好意を持ちなさい」と言われているような気になりますからね。
「いてくれてありがとう」の上限は「大好きになる」こと。下限は「あなたの存在を消すことはしません。(存在承認)」わたしは「あなたを殺しません、司法の裁定、また神様の裁きにお任せします。」という決意です。
「赦す」とは「感情を殺し、記憶を消し、帳消しにする」ということではありません。被害者の立場にたったら、そんなことできるはずがありません。
怒りや憤りは人間として当然の反応だと思います。赦すとは「神に任せる」という決意です。
だから、心が痛むのです。でも、最終的には報復の連鎖は起こりませんから、平和を作る作業になるのです。
【追伸】-許すとは?-
‘許す’とは、何でもかんでも無条件に受け容れ従うことではない、と思います。
★ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉
神よ
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
(他)人を許すことは本当に難しぃ‥。それは私自身を許す難しさに等しぃ‥。神のみぞ為せる業なり‥。
私も散々に騙され、利用され、侮辱されて捨てられました。天災も加わって、その挙げ句に全てを失い、障害者にまでされてしまった‥。猶も重なる人災‥。
精一杯の善意を尽くし、相手もそれに応えて呉れることを期待したからこそ、「殺してやりたい!」と、怨んだことさえありました。
ところで、この世に‘先生’と呼ばれる人達が居ます。医師、教師、裁判官、弁護士や司法書士‥、そして牧師も‥。弱者の味方と云われていますが、時に彼らは特に危ない。権威を与えられ、自分が正しい(或いは聖い)と勘違いして、まるで神の如くに思い上がってしまい易い。すると、独善的で身勝手に裁くことを好むようになる‥。何も解っていないことを知らず、認めようとさえもしなくなる。とどのつまりは、自己都合を優先する。
…しかし、私は聖書に示されました。
『…では、あなたはどうか?』と、日々イエスが私に問い続ける‥。「そぅでした‥私も相手(=敵)と同じです。あなたの偉大なる深遠を知らず、あなたの愛を疎んじ、踏みにじって参りました。」
★ 自分が正しい(或いは聖い)と勘違いしているうちは、相手(=敵)を許せないのではないでしょうか?
★ 愛すべき敵(=相手)とは、実は、私自身のことでした。
ヨブは何故、あれほど(まるで拷問のように?)自分を苦しめた友たちの為に‘とりなしの祈り’を捧げることが出来たのでしょうか? そして惨たらしい程の試練を受け容れられたのでしょうか? …そこにも多くのヒントと、“許し許される喜び”が、神から示されているように思えました。
私が属するメノナイト・ブレザレン教団は、撃たれても銃をとらない(報復しない)ことで知られるアーミッシュと同じ流れを継ぐ群れです。
私も共に、もっともっとイエスのことを知りたいと願います。アーメン‥
今週水曜日(1月25日)放送の「たびんちゅ(旅人)牧師の今日も求道中」で、榎本先生はアメリカの戦争映画を見た感想と言うか教えられたこととして、「サタンに支配された自分(たち)の敵とそのサタンに戦いを挑む天の父なる神様を応援する祈りの力」について話されました。
なるほどなぁ、と思いました。
私自身、自分を傷つけたり、またそばにいるだけで自分にストレスを与え続ける人たちに対してはなかなか許すことはできません(赦すなんてことはもってのほかです)。
しかし、それがサタンの仕業であり、それに対して天の父なる神様が戦っておられるということを知るとき、そこに深い慰めというか、確かな期待を感じられます。まさに「(人の)罪を憎んで人を憎まず」。「復讐は神のなさること。自分で復讐してはならない」という御言葉がより力強く心に響いてきます。そして何よりもそう受けとる時に、私を傷つけるこの人もサタンに支配させてこうなってしまっているのか、それならある意味仕方ない、と受け入れて、ゆるせなかった自分がゆるすほうへ近づくことができるように感じます。
こういう気づきを与えて下さった榎本先生とその番組を放送して下さったFEBCの皆様に感謝申し上げます。
今日の「恵子の郵便ポスト」(1/25)は「敵を愛せ」で神は人間を敵だけど愛した。従って、イエスに従おう決意したキリスト者は敵をも愛せ!
という説明をなさっていました。しかしながら私には身障者になったとき家に伝道に来て、私の身障が治るように!と共に断食祈祷会に
連れて行ってくれた牧師(今は亡くなっている)のことを思い起こします。その牧師は「良いことは神様のおかげ、悪いことは悪魔のせい」と
言っていたのを思い起こします。また近隣の教会の祈祷会の説明で、「敵を愛せ」とは敵の人間を作ったのも神様だから敵をも愛せるという説明で
「なるほど」と納得したのを思い起こします。