まるで暴れん坊のような・・・?

今日の通読箇所マタイ21章は、イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入って行く場面から始まります。
そのイエス様の姿を「柔和な方で、子ろばに乗って」と、旧約聖書で預言されていたことも書かれています。

ところが!
この後のイエス様の言動は、「柔和な方」とはまるで真逆!

神殿で商売している人を追い出し、台や椅子を蹴散らす大暴れをしたかと思えば、
実のないいちじくに腹を立てて枯らしてしまったり、
祭司長たちに、まるで喧嘩を売るようなことを言ったり、
まるで暴れん坊のよう???

ここに描かれている一つ一つのイエス様の怒りの理由は、私にはわかりません。
でも21章全体から伝わってきたのは、何かイエス様が殺気立っているような、神経がピリピリしているような、なんとも言えない緊迫感でした。
もし自分がその場にいたら、この空気に耐えられなくて、そーっとそこを退いていたかも・・・

いえ、今、聖書でこの箇所を読んでいても、この時のイエス様にはあまり出会いたくないというか、「柔和な方」という言葉にピッタリのイエス様を見つけに他のところへ退きたくなります。

でも、この時のイエス様はもう知っていたのですよね。
ご自分がどこに向かっているのかを。

この前の16〜20章にかけて、イエス様は三度、ご自分の死を予告しています。
今、目の前にいるこの人々によって殺される死を。
ご自分の愛した人々によって、裏切られ、見捨てられる死を。
罪人として神に裁かれ、呪われる死を。

その死に向かうイエス様のお心は到底わかりません。
でも、退かずに、ここに留まって、イエス様のお心を見つめ続けたい。
たとえ私が退いても、イエス様はそのお心を変えず、十字架へと向かわれることを、それがこの私のためであることを、本当に知ることができますように。
そう祈ります。


皆さまの通読の感想もぜひコメントにお寄せください。

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“まるで暴れん坊のような・・・?” への4件の返信

  1. よな子

    マルタンさん、marieさん、とどさん、コメントありがとうございます!
    率直に、感じたことありのままお寄せくださって、
    おぉ〜!まさに通読を分かち合ってる!って感じがして、うれしかったです。
    ホント、通読が続いてるって奇跡ですよね。
    マルタンさんの「いつ途切れるかハラハラしながら」は私も同じです(汗)

  2. marie

    マルタンさんと同じく、奇跡的に通読が続いています。
    新共同訳聖書を読んでいますが、判りにくい箇所は、フランシスコ会訳、新改訳も参照しています。今回は、「マタイによる福音書21章」についてではなく、あえて、この1ヶ月の通読の感想を述べさせていただきますね。

    聖書通読、(とりあえず、今のところは)文句なく面白いです!正直なところ、馴染みのない地名や人名にとまどいを感じることもありますが、あまりそのことにこだわらずに読み進めています。
    旧約聖書、というか「創世記」についての感想をば。こんなに生々しく「人間」そして「人間関係」の真実が描かれているとは思っていませんでした。日々、笑ったり驚いたり、時には憤慨したりしながら頁を繰っています。身につまされるエピソードが多々あり、毎日飽きません。
    新約聖書は、想像していた以上に、旧約のことを知らないと実感できない小ネタ(?)というかエピソードが至るところにちりばめられていて、これまで「旧約は難解そうだから・・・」と読むのを先延ばしにしていたことを反省しました。旧約あっての新約なのだな、と痛感しました。

    素直に感じたことを綴ってみました。何だか能天気な感想でごめんなさい。

    • とど

      1月30日の【恵子の郵便ポスト】を聴いてハッとしました。
      一生懸命に通読から学び取ろうとするあまり、「聖書の中に自分が入って行く」読み方になっていなかっただろうか…?
      御言葉を素直に心に受け止めることは、案外難しいように思いました。
      これからも誤読してしまうこともあるでしょうが、真心をもって主に聴いていけば、主ご自身が私の道筋を真っ直ぐにして下さると信じ、歩みを続けていきたいです。

  3. マルタン

    今年は奇跡的に通読が続いていて、いつ途切れるのか自分でもハラハラしながらやっています。
    ちょうど読み終えた後にTwitterを見たのでコメントしております。

    21章を読もうと広げたら先週の20章の最後の二人の盲人のところが目に入って「イエスはかわいそうにに思って…」という箇所に感謝だなぁとほんわか気分で21章に入りました。
    まもなく「ロバの子を連れてきなさい」の箇所。
    あぁ、もう十字架が近づいている、そしていちじくの木を枯らされるところから宮清め、ユダヤ人の指導者達への厳しい宣告を聞くとやっぱり胸がざわざわしてきて不安になってきます。

    「私は大丈夫?」

    というか、この章に出てくる誰にも共感できず
    ガンガン裁かれている祭司長、律法学者さえちょっとうらやましいような。
    何か、知ってる気になって近づこうとしない冷めた自分がいやです。
    二人の盲人のように「主よ、私をあわれんでください」と叫び立てるにもプライドが邪魔しているかもしれません。
    などなど祈ったところでした。

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