FEBCスタッフの私長倉が、
アラフォー男性クリスチャンとして、その葛藤やリアルな心境を交えて、
心のそのままをお届けしている番組、『FEBC HANGOUT!』。
私があまりにも「信仰者としての迷い」をさらけ出していたからでしょうか、
ある日、こんなメールが届いてしまったのです。
書きたい事がたくさんあるので、メールする事にしました。
表現等に気を使う暇がなく、色々非礼ではありますが、どうぞお赦しください。真理は「探すもの」ではなく、「そこにあるもの」です。
見えない人と見える人はいても、山のように常にそこにあるのです。
こちらの都合など構ってくれません、
というか私たちの気分や意見を寄せつけるものではないのです。
敵も味方もなく、ただそこにあるのです。・・・
人間の手は小さく、持てる知識は一握りです。
まったく違う視点を持つ者から、いらぬ御節介とは思いつつ、述べさせて頂きました。
何かの参考になれば、幸いです。
一見、「長倉さん、ちょっと違うんじゃない!?」という感じのご意見に、正直「どうしよう・・・」と思いました。
でも同時に、
「この方の思いをスルーしてしまったら、『HANGOUT』やってる意味が無い!」
と思って、こんな風にお答えさせていただいたんです。
頂いたメールを繰り返し読んで、僕の「痛いところ」を突いて下さったって思いました。
素直じゃないところ、たえず御言葉や教会で語られていることに対して
一歩引いて考えたがるというのは、危ういところに首を突っ込むことになりやすいって。
僕はどうしてこうなんだろうって思うんですが、
「僕は僕なりに本当に納得したい」っていうことだと思うんです。
逆に言うと、やっぱり信じているからこそ、問うたり探したりしているんだろうなって。
でも、あれこれ詮索することを繰り返して、
それで、「やっぱり僕の疑問は正しかった」っていうことは、むしろ少ないんですね。
「やっぱり自分は間違ってた」っていうことの方がほとんどなんです。
・・・どうやら、僕は「こういう仕方」でないと、分からないみたいなんです。
自分の腑に落ちる形で「この御方は本当に生きておられる」ってことが、
詮索したり、問い返したり、またひっくり返して考えてみたりっていうことを繰り返す仕方でないと、
アーメンって、僕は言えないんですよ・・・。
「結局、開き直りかよ!?」って思われるかもしれません。
ある意味では、そう思われても仕方ないと思います。
でも、この方が正直な想いを届けて下さった以上、こちらも正直な想いをぶつけるしかない、そこからしか始まらないと腹を括って、精一杯にお返事したつもりですが・・・どうでしょうか。
僕の想いだけでなく、このホームページをご覧のあなたの想い。
そのたまり場(=HANGOUT)に、この番組がなったら嬉しいです。
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長倉さんが、一生懸命に、正直な気持ちを話そうとする姿勢から、誠実さを感じます。放送を楽しみにしています。
はじめまして。HANGOUT、素敵なコーナーだと思いました。
皆さん書いておられるように、一人一人をよくご存じの神さまがともに歩んでくださって、生涯を通して真理を教えてくださるのだと思います。理解の方法やその時期は異なっていても、真理を知りたい気持ちに主は必ず応えてくださると思います。このコーナーをきっかけに、自分の歩みを振り返りましたが、私も「私でないとわからないやり方」で、導かれてきています。お便りの方にも、長倉さんにも、私にも、方法は違えど、主を求める思いが与えられていることは同じではないでしょうか。
クリスチャンは金太郎飴みたいにみんな同じではないからいいんですよね。それぞれいろんな賜物を持っていて、いろんな人がいる。
神様との出会いにもいろんなアプローチがある。
いろんな人がいるから、傷つくこともあるけれど、逆に気づかされることもある。勇気づけられることもある。
しかし、そこには神様の偉大なる計画があり、そこに知らず知らずの内に自分も入れられていて、こんな自分でも誰かを勇気づけたり癒したり励ましたりしているのかな、と思います。
「トマスって、まるで私みたいだ!」と、よく感じることがあります。「もっと素直になれたらなぁ‥」と、思えば思う程に、むしろますます似てくるようです。「まぁ‥“素直に疑問を感じる?”ってのもイィかも‥」と云うか、“性分”だから仕方が無いよぅです。
「長倉さんもちょっと私と似ているのかなぁ~」と、時々笑いながら放送を楽しく聴かせて戴いて居ります。
ちなみに、確かに、山はそこにあるんだ‥。でもだから登る。時には迷い、怪我もする。『もぅ、やめとけょ~』と言われても、また登ってしまう。‥って気持ちは、私にもよぉ~く分かります。ドンマイ、ドンマイ!
【追伸】
済みません‥また追伸することをお許し願います。
前回は、Kさんからのお便りに対する‘疑問を敢えて避けて’書かせて戴きました。しかし、やっぱり‘そこ’が一番気になり、肝心な気がしてなりません。
|真理は「探すもの」ではなく、「そこにあるもの」です。
|見えない人と見える人はいても、山のように常にそこにあるのです。
|こちらの都合など構ってくれません、
|というか私たちの気分や意見を寄せつけるものではないのです。
|敵も味方もなく、ただそこにあるのです。
先ず、私は『真理』を“神様”と置き換えて読むことに何ら抵抗がありません。
以下は、私の‘素直な疑問’です。
・神様を探し求めてはならないでしょうか?
・神様は私達の都合に大いに構っておられるのでは‥?
(キリストの十字架はその極みではありませんか?)
・神様は私達の気分や意見をも大切にしておられませんか?
・敵も味方もあるのでは‥?
かつて私は、「神(=真理)を“神様”と呼ぶから戦争が絶えないんだ。神に名は要らず“神”のままで良い!」と豪語し、信仰から離れ、放蕩していた時期が約25年ありました。Kさんの見解は、当時の私の感覚とダブります。
しかし今では、神様がむしろ人格的な交わりを大切になさることに希望を覚え、喜び、且つ畏れて居ります。
Kさんのお便りも、長倉さんのお返事も、楽しく(というと語弊があるかもしれませんが)、興味深いものでした。私自身は、(「空気を読まない」のではなく)「空気が読めない」タイプで、その上、感覚的に物事を捉える傾向の強い人間なため、タイプの違うお二人の率直なお気持ちをうかがえて、とても嬉しく思いました。Kさん、長倉さん、ありがとうございます。(^^)
長倉さんが番組の中でおっしゃっていた通り、本当に、神さまとの出会い方は人それぞれなんですね。それって素敵なことだなぁ・・・と番組を聴いてしみじみ感じました。
こんにちは。長倉さんのFEBC HANGOUT!に対してコメントがあったので、私も試みます。
既にあったコメントでは「似非クリスチャンは大嫌いです」「罪の中にしか生きられない人間」の
コメントがありましたが、私はいずれのコメントにも賛成です。
なんとなく真剣に人生を見つめようとする態度を感じます。
罪に満ちた人間を救おうとしてイエスを送ってくれた神に感謝します。
人間には体験重視の面があります。これが罪を引き起こすのでしょう。
学問は軽視すべきではないと思います。
最近のテレビドラマで「罪は犯させないのも守りだが、正しく償うのも守りだ」という台詞に感心しました。
何とかイエス様の声を聴いてみたく思います。
罪の中にしか生きられない人間には完全には見えないものなのだと思います。その不安定さから私達を救うのがイエス様の生き様が示しているー愛ーなのではないでしょうか?不完全な私達はイエス様の憐れみによる導きに頼るより他ないんだと思います。いつも祈り求めるのです。イエス様!助けてくださいと。イエス様は真実な方だから、必ず真実の方向に導いてくださいますよー!
久しぶりに長倉さんのコーナーを見ました。真理は厳然とそこにあるのですが、聖書を通して、真理に迫る探求をすることは大切なこだと思います。私は「沈黙は金」などと、変に大人ぶった、分かった風な振りをする似非クリスチャンは大嫌いです。長倉さん、今の姿勢を継続なさり、真摯に真理を追究ください。坂本寛己