「本当のところはどうなのよ!?」

行きくれて木の下蔭を宿とせば
花や今宵のあるじならまし

武将・平忠度(たいらのただのり)の辞世の歌。
源氏との戦いで深手を負い、最期に辿り着いたのが桜の下。
もう逃げ延びるすべもない自分を、今宵はこの花があるじとなって迎えてくれると詠っているのだそうです。
そう聞くと、古典に疎い私でも、何か悲しくも美しい最期を連想します。

ところが!

後に世阿弥が能にしたこの忠度は、全然美しくないのです。
なんと彼の亡霊が出てきて、「歌集に自分の名前を残してくれ!」と懇願するというのです。

せっかく桜の下で美しい最期を遂げていった人を、なにも亡霊になってまで自分の名を残すことに固執する人として描かなくても…という気がしてしまいます。

ところが!
石居基夫先生は、本当はそんな美しい最期じゃない!ということを世阿弥は見抜いていると語るのです。
「本当のところはどうなのよ!?」と。

 

ドキッとさせられました。
自分だって、世阿弥が描いた忠度の亡霊と同じじゃないか!と言い当てられた気がしました。

有名人になりたいわけでも後世に名を残したいわけでもないけれど、

ちゃんと私のこと認めてよ!
私のことをわかってほしい…
一生懸命やったのに報われないなんて悔しい!

そういう思いが亡霊になって出てきてしまうほど根深くある自分。
「神様にすべておゆだねして…」と美しくありたいけれど、
「でもね…」「どうして…」と、どうにもならない思いがある自分。

聖書は、そういう有り様を無視して綺麗事を伝えるのではなくて、
そういう私に、イエス様はどういうおかたかを伝えているんだと語る石居先生の熱いメッセージ。
ぜひお聴きください。


魂のゆくえ―日本人の死生観と福音理解
石居基夫(日本福音ルーテル教会牧師、日本ルーテル神学校校長)、お相手・吉崎恵子
毎月第二金曜日更新

「私の名前を呼ぶ神―平忠度の最期」

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“「本当のところはどうなのよ!?」” への3件の返信

  1. JQ2NJP クマちゃん

    昔、私の父親は、よくこう言っていました。

    「女の人は、子どもを産むことで、生物学的にも、その女の人が存在したことを証明できるけど、男の人は、子どもを残すことでは、照明できない。だから、なにか、後世に残ることをしなければならない。だから、男の人は、論文を書いたり、建築や発明をして、みんなの役に立つことを残さなければならない。」

    少なくとも、私は、大学を卒業するときに、卒業論文を書いたので、一応は私が生きていたことを残せるかしら?また、私のいとこは、瀬戸大橋の建設に携わったので、瀬戸大橋の根元にはめられている、工事関係者の中に名前が残っているので、それが墓標となるかしら?

    でも、私は、後世に名を残すことよりも、息子の心の中に存在したい!!!これって、わがまま?それとも無責任??

  2. 理系です

    今風の言葉では「承認欲求」でしょうかね。
     
    昔の人は、偉い人は特に何かを残して死にたいという傾向が強かったように思いますが、うーん、本当のところはわからないですね。
    昔の人のお墓が盛大なのは本人の希望もあったでしょうが、遺族の考え方にもよるでしょうから。
    しかし、何らかの形で記録されることへの憧れというか欲求はあったと思います。
     
    対して現在、日本人の死生観が変わり、墓を作らないで散骨を希望する人が増えています。でも理由は後世に迷惑をかけたくないというのを聞くと、回りを気にして空気を読みすぎる日本人にありがちな傾向だと感じてしまいます。そして「死んだら自然に帰る(帰りたい)」という古来の日本人の死生観に先祖返りしているのかな、とも思います。

  3. アシュラム読者

    いつかは死ぬこの体をどのようにすれば良いのか。灰になる体はもうどうしようもない。魂はどうなる?私にはどうにもならない。そこに神のことばがある。ことばは神である。今その言葉を実行できるか、それが問題です。

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