今月から始まった村上伸先生の「あなたはどう生きるか―現代キリスト教倫理」の再放送。
本放送は1988年。今から29年前です。
当時の月刊誌に、この番組のPR文章が掲載されていたのですが、とても29年も前のものとは思えません。
今日の日本は「何かが間違っている」で充満していやしないか。
為政者の言語道断の発言と、それを生み出す政治の体質。社会の実力者、金持ちが発言力を持ち、たとえ曲がっていても強い者を軸としたグループの意志が先行する世の中。
このような時代だからこそ、いついかなる状況に陥っても自らの方向を見極めて判断可能にならしめる、造り主の目にかなう倫理を内にしっかり持っていたいと切望する。
そのためこの番組を通して良い指針、いや、共に考え、神の本来の御意を仰ぎつつ今日という生活の中で自らが判断し生きるための助けとなることをただ祈る。
こうも記しています。
一つの揺るがぬ基準や存在を信じる者は古典的な人間として珍しがられたり、半ば冷笑されながら“まじめな人”と片付けられる傾向があるのが今の時代のようだ。
しかし、一端時代がくずれ、体制や周囲に異常な空気を感じた時に気付くのは、その冷笑していた基準こそ日頃内にたくわえておくべき事であったという事ではなかろうか。
国が、世界が、正しくない方向へ動こうとしている時代にこそ、耳を傾けたい番組です。
いえ、なにも国とか世界という大きな規模でなくても、
たとえば誰かとの会話や、人間関係や、
私たちの日常の中にも、正しくない方向へ動こうとしている時というのはあると思います。
その時、私たちは問われているのではないでしょうか。
「あなたはどう生きるか」と。
しかも村上先生は「キリスト教倫理というのは、自主的に考えて、判断して、自分の責任において行動することができるようにするための『基準』を与えるもの」だと語るのです。
その理由はただひとつ。
キリストご自身が、極めて主体的に生きられたからにほかなりませんと。
あなたはどう生きるか―現代キリスト教倫理
村上 伸(日本基督教団隠退教師)
毎週土曜日更新
第2回「キリスト教倫理とは〜2.自主的に生きる」
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どんなことをしてもイエス様がちゃんと受け止めてくれている後に乗って安心する家様は家様はイエス様はこの世の中に絶対的な存在ではないでしょうか人々が皆このような考え方をすれば戦争なんて起こってないでしょうイエス様もう近くに寄られます e 様はもうお近くにおられます
世界は悪で人間も悪である。だから自分に都合の良いようにすればいいんだ。
こんなことを考えてしまいますが、やはり私の心の指針と救い導きはイエス様にしかありません。
私は今年で信仰歴30年になる45歳のオッサンですが、数々の矛盾の中でイエス様の救いを示されています。もちろん現在でも生活の中の試練はありますが、キリストにゆだねることが最善です。イエス様にゆだねて一日を始め、イエス様に感謝して眠りにつきます。そうするとこの弱い一つの命が神様に守られるんですね。いつなくなってもよいような私の生命をイエス様が支えてくださっているんです。
まだコメントさせていただけるでしょうか?
村上先生の番組、とてもほぼ30年前のものとは信じられません。まさに今この時代にふさわしい内容だと驚きつつ聴かせていただいています。
私自身は、いい加減に生きてきた、無責任で主体性のない人間なのです(汗)が、村上先生のご誠実な語り口とお話が大好きです。再放送を決断してくださったFEBCスタッフさまに感謝申し上げます。これから1年間、とてもワクワクしています。
主体性を持って生きる
その場でパット判断する
かつ杓子定規ではなく愛を持って
しかし愛のためには主の決められた訓戒を破ってもいい、という拡大解釈をしてしまうのも危険だ。正しく働かせないと、愛のためだ!隣人のためだ!といってそれを理由に色々と捻じ曲げてしまわないか。
だからそこでまた考え込んでしまう。難しいね。
妻子ある男性を恋した女性が、自分の愛を受け入れてくれなければ自死する、といったら?
キリスト教をやめなければ離婚します、と言われたら?
会社が倒産して多くの人々が露頭に迷う、だから脱税をする、と社長から言われたら?
ボンヘッファーやフェレーラ神父ほどではないが多かれ少なかれキリスト者には戦いがある。そしてそれを祈りつつ乗り越えるように、言われる。
乗り越えられなかったら?
困難や迫害、孤独な戦いの中にある信徒に、主にある倫理観を持って歩むことの戦いに、平安があるように
村上牧師の次の回を楽しみにしています。
自主的に考えて判断する…。 つい最近まで私にとっては難しい行動のひとつでした。数年に渉る病が寛解して、やっと再び楽しく生きようと思えるようになりました。辛い時、いつも私のそばに居てくださったマリア様に感謝いたします。(^^)
実は、私も、いつも、右に左にぶれまくっています。「絶対的なものなんか、人間世界ではありえない。その時その時を、一番自分が良いと思うことをしたりすればよい。」という意見に、賛成している自分もいますし、「いやいや、神様の導きに従うことこそ、最善、最良のことだ。」と思っている自分もいます。だから、私は、いつもイエス様にお祈りしながら、自分の足で自分の人生を歩んでいると思っています。勿論、神様に毎日導かれているのでしょう。表面的には、相対的な世界の中で生活をしながら、絶対的な存在に導かれて、生かされているといった状態です。
優柔不断な私は、判断に苦しみます。
でも、毎朝、主にお祈りしてるから、主が導いてくれると思ってます(*^o^*)