主の祈り。
キリスト教会二千年の歴史の中で、いったい何人の人々によって、どれだけ祈られてきたのでしょう。
リスナーからお寄せいただくお便りでも「FEBCの放送の中で最後の主の祈りが一番好きです」とおっしゃるかたが結構いらっしゃるのです。
ルカによる福音書によれば、「わたしたちにも祈りを教えてください」と言う弟子たちにイエス様が教えた祈りだとされています。
そしてこれは、イエス様ご自身の祈りを弟子たちに教えたのではないかとよく言われます。
でも、もしこれがイエス様の祈りだとすると、どうしても引っかかる点があるのです。
「わたしたちの罪を赦してください」。
イエス様が神様にこう祈るなんて・・・
けれども井幡先生はこうおっしゃるのです。
私は、実際にイエス様はそのように祈っておられたのではないかと思うのです。
イエス様ご自身が真っ先にこの祈りを我が祈りとしていつも祈っていらしたのじゃないか…。
本当だろうか…と思ってしまう一方で、そうであって欲しいという思いがあります。
もしイエス様が本当にこう祈っておられたら・・・
そう思うだけで、なんだか胸がいっぱいになって、主の祈りを祈るたびに熱いものが込み上げてきそうです。
イエス様がこの私の罪を「わたしたちの罪」と言ってくださるなんて・・・。
FEBCをお聴きくださるかたの中には、たった一人で放送に耳を傾けておられるかたが少なくないと思います。
誰にも打ち明けられない悲しみを抱えて、放送の最後の主の祈りを祈るそのかたは、そして私たち一人ひとりは、決して独りぼっちで祈っているのではない、
そんな希望を見る思いがします。
どこへでも、どこまでも―ルカによる福音書
井幡清志(日本基督教団石動教会牧師)
毎週木曜日更新
第81回「『私たち』の祈り」
【お願い】
コメントはお一人600字以内でお寄せください。
コメントの受付期間は2週間です。
皆さまのコメントをお待ちしています。
イエス様が人間の罪を「わたしたちの罪」 として祈ってくださったというのは感謝なことです。ですが、“イエス様が「罪を赦して下さい」と祈った?” というタイトルがよろしくない。誤解を招きます。罪を全く犯すことなく生涯を歩まれた救い主・贖い主としてのお姿を明確にしなければなりません。
主の祈りは「イエス様ご自身の祈り」ではないと思います。
いつも放送の最後…私も一緒にお祈りします。 主の祈りが好きです。(^^)
主の祈りの「わたしたちの罪をおゆるしください」について、気づきを与えてくださって有難うございます。そのようなことを思ったことがありませんでした。
私達の罪を、私達の身代わりにすべて背負って罰を受けて贖って下さったイエス様なればこそのお祈りの御言葉なのだなと思いました。
これからは、主の祈りを唱える度に、思い出させて頂きたいと思います。気づかせて下さって感謝致します。
キリストに賛美と感謝。
めぐみ
イエス様も罪人なんですか?
神は栄光のため最も砕かれた魂を用いるから私にも何かをさせてください。
私に可能なことを御命じ下さい。今日の放送で首から上だけが自由な人が紹介されていました。
星野富弘さんのように絵を描いてみたらどうか。
他人のために何かをすることが知れ渡っていないのが、
日本でキリスト教が敷延しない理由か。
イエス様は、本当に、自分の事のように、私達人間を愛しておられたのですね!
決して、ひとりぼっちじゃない。。。うん、安心だぁ~~~(^.^)