今回、岩島神父はお話の最後で、現代の人にはこの赦しの秘跡が軽んじられている、
という事をおっしゃられていました。
そして、「告白して、罪の赦しを得て死ねたら、すごく幸せだと思うのです。すっきりします。」と。
私はこれを聴いて、何となく藤原道長の最期を思い出したんですよね。
阿弥陀堂の中で、自分の手を阿弥陀如来像の手と五色のひもで結わえつけて、
釈迦の涅槃に習って、北枕西向きに横たわり、
集められた沢山の高僧と共に念仏を唱えながら亡くなった。
というあのエピソード。
どうやってでも、何をしてでも救済されたい。
ちょっとやりすぎぐらいな感じがしますけれども、
でも、気持ちとしてはわかるような気します。
この世の事を極め尽くした、そんな人間でも、
等しくあの世の事はわからない。死だけは自力で乗り越えられない。
心が不安でいっぱいになって、どうかこの手を離さないで欲しいと、
一生懸命に彼は「助けてくれ」と、祈ったのではと思うのです。
私も主の十字架によって自分の罪がすでに贖われたと信じていますけれど、
でも、やっぱり死という壁を前にしたら、
不安なものは不安であることに変わりはないと思うんです。
いくら主を信頼していたとしても…実際怖いものは怖い。
でも、そんな不安な真っ暗闇の中に先に来てくださっているのは主なんですよね。
私達が死を怖がろうと、どれだけ無様であろうと、もうこの方がおられる。
十字架にかかられたこの方だけは、最期の最期まで必ず共に歩んで下さる。
そしてそこで、私達の「助けてくれ」という叫びに応えて
「お前を赦すよ。」「赦しているんだ。」と、改めてお声を掛けて頂けるなら、
それ以上のことはないなあと思うのです。
まだ、私が死ぬのはもう少し先になるかなと勝手に思っていますけれど、
そこで洗いざらい主にありのままの私を告白できたなら。
もはや強がることもなく、裸で死んでいけたなら。
確かにそんな人生は幸いだなあ…と憧れの気持ちを今回は抱きました。
岩島神父のキリスト教信仰入門講座
岩島忠彦(カトリック・イエズス会司祭、上智大学神学部名誉教授)
毎月第1金曜日更新
「キリスト教は生き方です。」
そう語るカトリック神学界第一人者の岩島忠彦神父が、麹町聖イグナチオ教会で長年続けていらっしゃる講座の録音を元に再構成した番組です。
第26回「罪と赦しの秘跡―福音の真髄」
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