「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(コリントの信徒への手紙一2章2節)
パウロのこの言葉、原文は「十字架につけられたままでいるキリスト」と訳せるのだそうです。強烈な言葉です。
放送中の代田教会礼拝説教はちょうどこの箇所からなのですが、平野克己先生は、かつて加藤常昭先生が講演の中で語った「キリストの体である教会を、キリストにお返しください」という、これまた強烈な言葉を紹介しています。そして、この言葉にパウロと同じ息づかいを感じると語るのです。
パウロにしても加藤先生にしても、一体なぜここま言い切るのか?
教会が、私たちが、見失い、忘れているからだと言うのです。
もっと立派で美しく、豊かなものを求めて、上へ上へと登って行こうとして、弱く貧しい者たちの姿を見失っている。いえ、実は自分自身が本当はいかに惨めな者であるかを、そして、最も低いところへ、深い墓穴へ、陰府にまで降られたキリストを。
しかもそれに気づいていない・・・。
十字架につけられたままのキリスト。
これこそ神が私たちに与えられた、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」(9節)。
私たちはこのキリストをすっかり忘れるのです。
だからこそ、この悲痛な叫びを自らへの招きとして聞き直したいと思います。
「キリストの体である教会を、キリストにお返しください」。
礼拝番組 全地よ主をほめたたえよ
日本基督教団代田教会 説教:平野克己
「十字架につけられたキリスト」(1コリント2:1〜12)