罪に苦しむ

【信書メールへの返信一時停止のお知らせ】
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鋭意、体制を整え、返信業務の復旧に取り組んでおりますので、新たにメールを送信くださるのは復旧まで今しばらくお待ちくださいますようお願い申し上げます。
また、すでにお送りいただいたメールへの返信は復旧後順次行います。
お返事を通常以上にお待たせすることとなってしまいますが、何卒ご理解くださいますようお願い申し上げます。
なお、郵便による信書へのご返信は通常通り行っておりますので、ぜひご利用ください。
 
復旧時期の目処は分かり次第、HPにてご案内いたします。
ご不便とご心配をおかけしますこと、重ねてお詫び申し上げます。

今日の「恵子の郵便ポスト」のお便りは、聖書を読み始め、教会に通い始めて間もないかたからのお便り。
聖書を読むにつれ、ご自分の罪について考えるようになり、「こんな罪を持った人間を神様は赦してくれない」と思うようになり、「とても辛いです」と。
そのお便りに恵子さんは「自分の罪に気づくことは、イエス様の赦しを確かにいただくために一番必要なこと。神様の前に喜ぶべきこと」とお返事しています。

まったくもってその通りだと思います。同時に、ふと思ったのです。
果たして私は、罪に苦しんでいる人に「それは喜ぶべきこと」とまで言えるだろうか?と。
「イエス様は赦してくださるんだから大丈夫」とは言えても、なかなかそこまでは言えないのではないだろうか?

そもそも、自分の罪に苦しむなんて、避けて通りたいことです。
でも、それが喜ばしいことで、イエス様の赦しをいただくために一番必要なことだと・・・。

恵子さんの言うとおり、イエス様と共に十字架で死ななければ、新しい命に生き始めることができないのでしょう。
十字架の死がなければ復活の命もなかったように、罪深さに気づかなければ、このイエス様の赦しの計り知れなさも味わえないのでしょう。
だとすれば、自分の罪に気づくことは、イエス様からの赦しへの招き。喜ばしい恵みです。

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