コロサイの信徒への手紙2章18節から、ヴァルター・リュティ牧師は、
「そもそも、私たちは目標を持っているだろうか?」
と私たちに問いかけます。
私自身をふりかえると、しっかり計画して物事を遂行することは大の苦手。
これは身につまされるな…と思いつつ聴いていると、
驚くべきことばが語られました。
「私たちの時間的な計画は、真実な目標ではありえない。
…それらのものは、最も好都合な場合でも墓場までという短い時間の間、私たちを満足させるであろうが、
その墓場では、私たちを非常な困惑の中で立ったままにしておき、横たわったままにしておく。」
「墓場までという短い時間」すごい言葉ですね…。
つまり死ぬまでの事をずっとぬかりなく計画していたとしても、
それでは全く不充分だ!と断言されている。
完璧に思えるかもしれないが、それは「目標のための目標」でしか無いのだと。
まあ、それはある意味、キリスト教の説教なのだから
当たり前だろう…、と思われるかもしれませんけれども、
その後に、こうも語られているのですね。
「私たちの目標を狂わせるものが、…キリスト教的形態においても表れることがあり得る。」
「一人よがりの礼拝と、わざとらしい謙遜。様々な敬虔な規定の網。
自分で作って、わざとらしい謙遜と、天使礼拝の中で登ってゆく天の階段。…」
思い当たるフシがあるのです。
しっかりと礼拝を受けていれば、この世の事は、まあ二の次で良いと。
でも、そういう考えは結局、
この世の事から逃避する「私たちの時間的計画」
の一部に過ぎない様な気がしました。
では、どうすればいいのか。
まるで出口の無い迷路に入ってしまったかのような感じがします。
私たちの人生には、そもそも正しい目標など
立てられないのかも知れません。
でも、そこで思い起こしたいのです。
何より、主イエスご自身が、
人間としてこの迷路に飛び込んで来てくださった事を。
そして逃げずに、十字架の上で
「成し遂げられた」と目標を達成してくださった。
このような私の為に。
一体どこを目指し、私はこの人生を歩んでいるのか。
私たちの最終目標とは一体何なのか。
それを知るのは、やはりこのお方の姿からでしかあり得ない。
そのように思わされています。
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