どこになお、わたしの希望があるのか。
誰がわたしに希望を見せてくれるのか。
それはことごとく陰府に落ちた。
すべては塵の上に横たわっている。
(ヨブ記17章15〜16節)
もうすぐ今年も終わり。
みなさん、聖書通読は続いてますか…?
旧約聖書はヨブ記に入ったところですね。
ヨブの友人たちは、本当に思いやりと善意にあふれた人たちだと思います。
なんとかヨブを慰め励まそうとお見舞いに行ったけれど、
あまりに悲惨なヨブの状況に言葉を失い、7日間も黙ってヨブのそばに座り続けたのですから。
でも、ヨブの嘆きの言葉を聞くと、
「それは聞き捨てならない」と今度はヨブを教え諭すようになる…。
たしかに、理不尽な苦しみに遭っている人に正論をふりかざしても、
何の慰めにもならないし、かえって苦しめることになってしまうでしょう。
でも、この友人たちの気持ちも分からなくはないなぁ…と思うのです。
「私は正しい、潔白だ」と主張するヨブに、
「いやいや、そうは言ってもあなたも人間なんだから、完全ではないでしょう。
誰にでも罪があるのだから、神に口答えするなんてとんでもない」と。
それでも神に訴え続けるヨブ…。
神様から「無垢な正しい人」とお墨付きをいただいたほどの人。
そもそも、ヨブの受けた苦しみのきっかけ自体、神様とサタンの駆け引きみたいなものだし、
ヨブにしてみればたまったもんじゃない(もちろんヨブは知らないことでしょうけれど)。
あれこれ思い巡らしながら今日の通読箇所、ヨブ記17章を読んでいた時、
6節の「わたしは顔につばきされる者」という言葉に目がとまりました。
たしかイエス様も、顔につばきをかけられたんですよね。
そして8節の「罪のない人よ」という言葉。
本当に罪がないのなら、こんな理不尽極まりないことはない。
罪のない人に、神ご自身が手を下す、あってはならない事が起こった。
それがイエス様の十字架だった…。
「どこになお、わたしの希望があるのか。
誰がわたしに希望を見せてくれるのか。」(15節)
ヨブの叫びが、イエス様の叫びとして聞こえてきました。
* * *
毎日、神の言葉を味わい続けるために、
ご一緒に聖書通読をしてみませんか?