誰にも言えない、でも誰かに聴いてほしい
そういう思いを敢えて言葉にする機会なんて、そうそうない・・・
いや、一生、言葉にすることのないままということのほうが多いのかもしれません。
でもそういう思いは、たぶん誰もが心のどこかに持っているのではないか・・・そんな気がします。
「恵子の郵便ポスト」で読まれる、その方の心が綴られたお便り。
一度もお会いしたことのない、自分とは全く違う人生を歩んでいる方のお便りなのに
不思議と自分の心を重ねて聴いてしまうことがあるのは、
自分の中の「だれにも言えない、でもだれかに聴いてほしい」思いと
どこか重なるからなのかもしれません。
聖書通信講座を受講中の、ある女性のお便りもそうでした。
その方は、ご自分のこれまでの人生を振り返ってお書きくださり、このように締めくくっておられます。
この手紙によって、今まで誰にも語ることのなかった胸の内をさらけ出し、聞いていただけますこと、心より感謝いたします。
このように人生を振り返ってみると、自己中心な自分、身勝手な自分を示され、主の前に罪の赦しを願い、憐れみを請うばかりです。
でもイエス様は、私の傍らに寄り添って、ず〜っとず〜っと歩んでくださっていたのだと思います。聖書の感想でなく、書きたいことばかり書いてしまい、投函をためらいましたが、次回からはみことばの感想を書きますのでよろしくお願いいたします。
誰にも語ることのない胸の内をさらけ出す。
その時、その胸の奥に隠れた、一番求めているものが見つかるのかもしれません。
さらけ出す胸の内は人それぞれでも、その奥にあるのは、誰の心にもある求めで、
イエス様は、そこで、ず〜っとず〜っと私たちを待っていてくださる・・・
この女性のお便り、そして恵子さんの「イエス様はじっと待っていてくださった」という声のお返事を聴きながら、そう感じました。
そして、「聖書の感想でなく、書きたいことばかり・・・」と書かれているけれども、
聖書の内容についてどう思ったかを書くのだけが、この講座ではなくて、
ご自分のことをさらけ出せるというのも、実は聖書を通していただく恵みなのではないかと思いました。