「老い」を主イエスから考える。

3月で最終回を迎える「キリスト信仰としての『終活講座』」。
今回は北村善朗神父様に、そのものズバリ「老い」とはなにかというお話をお聞きしました。

「老い」は人間として当たり前のことです。そして、これが「当たり前である」ということは、老いるということは人間として生きることの一部であり、もっと言えば、これが人間であるということです。人間の定義が若くて何でも出来るということであるとすれば、それはただ単に人間の「器」だけしか見ていません。…では、イエス様は「老い」ということをどう理解しておられたのでしょうか?

神父様はその手がかりを「十字架」に見ます。
イエス様が十字架にかかられたのは壮年の頃ですから、
普通に考えると、老いとはあまり関係ないようにも思うところです。

しかし、主イエスが十字架に向かう姿勢、
それこそが私たちの老いとちょうど重なるのだ、と神父様は言われるのですね。

一体、どうしてでしょうか?


それはぜひ番組をお聞きいただければと思うのですが、
私はお話を聞き終わった時に、まるっきり自分が考えていたことが
逆転してしまったような気がしました。

でも、このイエスの生涯、十字架の出来事を追うことにより知る「老い」。
これこそキリスト教が本来大切にしてきたものなのですね。

現代に生きる私たちがいつのまにか忘れ、捨てさってしまったもの。
再びその真価が語られます。


キリスト信仰としての『終活講座』
第六回「老いるということ―主イエスの受難を辿りながら」
北村善朗(カトリック京都司教区司祭)
3月6日放送
毎月第一金曜日更新


聴取期限4/2(約60分)

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