キリスト教放送局FEBC「わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」旧約聖書イザヤ書44章22節(聖画:サン・ダミアーノの十字架)
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受講者の声

誰でも「一度は聖書を読んでみたい、聖書に何が書いてあるのか知りたい」と思っていらっしゃいませんか?

聖書。中でも、新約聖書の4つの「福音書」と呼ばれる部分は、
イエス・キリストの言葉、行動、イエスを取り巻く人々、イエスに
まつわる出来事が書かれています。「キリスト教」とは、このイエス・キリストというお方が鍵だということです。

今から約2千年も前に書かれた福音書。
ところが、その福音書を読むとき、
私たちは、
「あ!これはわたしのことだ!」
と気づきます。
イエスと出会った人は、
実はこのわたしの姿であり、
イエスが話されたことは、
わたしに向けられた言葉だ、と知るのです。

今、ここに生きる「わたし」という
一人の人間の姿を映し出し、その存在に深く
語りかけてくる聖書。
聖書を通してイエス・キリストに出会う時、わたしたちは不思議なことに自分の命の意味を知り、生きる勇気が与えられます。

「主イエスの福音」それは、わたしたちの命に輝きを与える喜びの知らせです。

ニコデモのところを読んで、「主イエスは、ただおひとり仙人のように教えを説かれるのではなく、私たちひとりひとりと対座して私の課題に本気で取り組んでくださる方であるということです。」という解説に目が止まりました。そして本当にその通りだなと思い… つづき▼

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ヨハネによる福音書1〜3章受講の女性

ニコデモのところを読んで、「主イエスは、ただおひとり仙人のように教えを説かれるのではなく、私たちひとりひとりと対座して私の課題に本気で取り組んでくださる方であるということです。」という解説に目が止まりました。そして本当にその通りだなと思いました。

聖霊さまのお働きを信じて読むとき、聖書は単なる物語や教本のような書物ではなくなります。私への生きた神様からの語りかけ、愛のメッセージになるのです。

最近、聖書は宝物が無造作に詰め込まれた素晴らしい書物だ、とつくづく思うようになりました。神様と自分との「関係」を求めて読むとき、神様は喜んでそれに応えてくださいます。そして神様が私とどれだけ真剣に関わってくださっているか、また本気で私のことを愛してくださっているかがよくわかるのです。本当に涙が出る程、喜しいことです。

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マタイによる福音書9〜10章受講の女性

マタイによる福音書9章〜10章を、何度も読みましたがとても難しかったです。

「子よ、元気を出しなさいあなたの罪は許される。」

もし私が寝たきりの重病人だったら、こんなふうに言われて嬉しいだろうかと考えます。「起きて歩け」と言われたほうがよいのではと思います。

でも本当は、孤独で見捨てられた私を深く憐れまれて「子よ、大丈夫です。あなたの罪は許されているのです」と言ってくださる方がどんなに嬉しく心強いことでしょう。

「イエスは町や村を残らず回って、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」とあります。一人でも多く救いたいと休む間も無く必死で駆けずり回っておられたのでしょうか。そこでは皆が癒され喜びにあふれていたのでしょう。

主イエスは本当に徹底的に仕える僕として行動されておられるのですね。このイエス様の後ろからしっかりついて行けたら良いなと思います。

「ハイ。このわたしをおつかわしください」と言えるようになれたらいいのですが、まだまだダメですね。

10章34節〜39節はとても厳しい言葉ですね。平和をもたらすために来たのではないとは?剣とは?今一つよく理解できません。10章は全体的に宣教の厳しさを教えているのでしょうか。教えて下さい。

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ルカによる福音書7〜9章受講の女性

ルカ8章の「イエスの服に触れる女」のところは、私の好きな部分です。あの方ならきっと自分の病を癒してくれる、と信じて群衆にもみくちゃにされながら、必死で手を伸ばす女。それを受けてとめてくれる主イエス。「ひたすら信じること」そして「行動すること」が必要なのだな、と思います。

しかし、自分を振り返って、うーん、私はこんなに必死の思いで主にすがったことがあるかな?と疑問です。そういう意味では洗礼まで受けながら、悔い改めもあまりしていないような気がするし、自分の罪深さ、というのも今ひとつよくわかりません。そのために「赦されている」というありがたみも身に沁みていないような…。

9章のガイドにありました「観念のキリスト教を頭で理解しているに過ぎない」とはまさに私のこと!

お祈りが大事だとは思うのですが…。どうにも祈るということができません。言葉にした途端、全部が嘘っぽくなってしまいます。祈りの本などを見ても、なるほど、と思うよりも、なんとなく、嘘っぽいな、ほんとに心からこんなふうに思ってるものなのかな〜?とついつい思ってしまいます。本当に心から祈れたら、きっとすっきりするでしょうね。

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ヨハネによる福音書4〜6章受講の男性

4章。サマリアの女との対話。イエスさまは、このサマリアの女のように汚れた人間にも語りかけ、救ってくださるのですね。私も堕落した人間です。いま失業中です。仕事を探して面接に行ったりしていますが、ダメです。昼間からお酒を飲むこともあります。こんな私でも、イエスさまは救ってくださるのですね。そう思うと、希望が出てきます。

ガイドにあった次の言葉が印象的です。「あらゆる物質的欲求も、満足すると同時にまもなく新しい欲求を繰り返して終わりがありません。本当の渇きをいやしてくださるのは主イエスだけです」

私も主イエスを信じてみようと思います。イエスさま、私の渇きをいやしてください。

5章.ベトザタの池で38年病気だった人をいやす。38年もの間、病気で苦しみ、世の人々からも避けられ孤独な病人にイエスさまは語りかけ、そして病をいやしてくださったのですね。弱き者に対する、イエスさまの強い愛を感じます。こういった、社会から見捨てられた人にも、イエスさまは話しかけて救ってくれるのですね。本当に感動的な箇所です。

6章.「五千人に食物を与える」。パン5個、魚2匹というわずかな食料が、五千人に分け与えることができるほどに増殖したのでしょうか?細胞分裂のように?それとも、これは一種の誇張的表現または比喩なのでしょうか?

イエスさまは神の子だから、不可能なことは何もないといえばそうなのでしょうけども。どう解釈すれば良いのか、よく分かりません。

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