バラバラの言葉ではなく

今回の「聴く信仰―『いのち』をいただく御言葉黙想」では、
山内十束神父と共に、マタイによる福音書11章25節から30節の言葉を味わいます。

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

私はこの文を改めて読んだ時に、
「有名な聖書箇所が二つ含まれているなあ」
そう感じました。

「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

何だか、これらを一つの箇所として認識していない自分がいたのですよね。
みなさんはどうでしょうか。

もちろん、これらの言葉一つ一つはとても深く、
それだけを個別に扱っても多くの神の恵みがそこには秘められているわけですが、
でも、本来はバラバラなものではなかったわけです。

主イエスがその時どういう状況であったか。周りの人がどう動いていたか。
それがあってこその一つ一つの発言であり、み言葉だったはず…
当たり前のようですけれど、
神父様のお話からはまずその事を示されました。

具体的なその黙想の内容はぜひ放送をお聞きくださいましたらと思うのですが、
聖書を読むとは、また、黙想するとは、
この「文脈」こそが重要なのだと私は心にしみました。

あの時だからこそ主イエスが発せられた言葉を、
今を生きる私が受け取るという不思議。
でも、それが矛盾しないのがこの生きる神様への信仰なのですね。

今を生きる主イエスが、この時だからこそ
私に語る言葉とは何か。私達が気づくべきその日常の中の文脈とは。
ぜひ放送から、自分自身と神様のストーリーとして、
共に聖書の物語に想いを巡らせることが出来ましたら幸いです。


聴く信仰―「いのち」をいただく御言葉黙想
第15回「痛みを共に、神の御前に」
山内十束(カトリック・御受難修道会、宝塚黙想の家司祭)
7月12日放送

聴取期限8/8
(約22分)
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