血の通った御方を求めて

「イエスの生涯を黙想する」今回のテーマは、主イエスの少年時代のことについてです。
その中で触れられた、ある聖書箇所がありました。

ルカによる福音書2章49節
「どうしてわたしを捜したのですか。
わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

家族で過ぎ越しの祭りのために都へと出かけ、
その帰り道で、息子のイエスがいないことに気づいた両親。
大慌てで彼を探しに戻ると、なんとエルサレムの神殿で
学者たちと座り込んで質問やら受け答えをしていたのでした。
そこで、母マリアが「何をしているんですか!お父さんもわたしも心配して捜していたのですよ!」
と叱りつけたところにイエスがした返答がさきほどの聖書箇所です。

何だか、おっしゃりたいことはわかるけれども、超然としすぎていて、
必死で自分を捜してくれていた親にかける言葉だろうか、って感じはしませんか?
私はずっとそういう印象ばかりでした。

でも英神父さまはここを、
「イエスが、自分が一体誰であるのかを悟った瞬間という感じがする。」
と父ヨセフとの複雑な関係、コンプレックスを通して読み解かれるのですよね。

それを踏まえると、先ほどのイエスの言葉も全然違って響いてくるというか、
俄然血の通ったリアルな発言に聞こえてきたのです。
ああ、これは少年イエスが独り立ちをするための宣言だったのだな、と。
今までの十数年の人生の交々が含まれた言葉だったのだな、、、と。

黙想すること、深く聖書の御言葉に向き合うということは、
そこに血肉の通った御方をみるという事なのですね。

そして、その生きている御方のことを見つめるからこそ、
自分のことも現実的に見つめなおすことが出来る。
そのことを実感させられています。


イエスの生涯を黙想する
英 隆一朗(カトリック・イエズス会司祭、麹町教会助任司祭)
毎週月曜日更新
第3回「成人式」

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