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2005年6月18日放送
布施美千代
(看護師、日本同盟基督教団招待キリスト教会会員)
インタビュアー:吉崎恵子


−どうして看護師になろうと思ったんですか。

中学の時に指を怪我して病院に行った時に看護師さんがキラキラ働いてたのが印象的で、その時に看護師になろうと思って。

−その憧れの姿にご自分がなってみてどうでした?

患者さんのために何かしてあげようっていう姿勢で看護師になったけれども、実際、病んでいる人のそばにいるっていうことが、本当になんて言うか…、責任の重さに初めて気がついて。私にはこの仕事は無理だと思わされて。患者さんとの出会いを通して自分を初めて知ったというか。この苦しんでいる人のために自分に何ができるんだろう、何もできないじゃないかって、そこに立ってしまった時に、やっぱりもう難しいと思ったんですね。自暴自棄というか、何のために生きるのかわからなくなって、どうせ死ぬんだし、好き勝手に人生楽しく生きればいいんじゃないかと思っていろんなことをやってみたり。

−そういう時に目の当たりにされた患者さんは…?

ガンで、もう告知されて末期だっていうことも分かっていて、でもその方は自分は大丈夫っていう感じでいたんですけど。五十代後半の方で。

でもだんだん動けなくなってきたあたりの時に、「自分はなんでこんな病気になったのか」とか「自分は死んだらどこに行くのか」って切々と私に訴えてきて。私はそれは答えられない、ただ泣くしかないっていうか。なんとかそこの部屋を出てきて、勤務室で泣きっぱなしで、もう部屋に行けなくなっちゃって。

なんでその人が病気をしなきゃいけなかったかっていうことも私には分からないし、死んだらこの人がどこに行くのか分かんないけど、自分もどこに行くのか分かんないと思って。こんなんで私はこの人に何かしてあげようと思って看護師やっていることが、すごいおごっているっていうか。もうこのままこれはできないと思って、すごい悩んでしまって。

同じ職場にクリスチャンの女医さんがいたんですけど、「私も教会、行ってみたい」って言ったら、「じゃあ行きましょう」ということで。

− 初めて行った時、いかがでした?

聖歌隊が練習してたんです。礼拝始まる前に。その聖歌隊の歌を聞いてるだけで涙がボロボロ出てきて。もう感動で。礼拝が始まっても泣き通しというか。で、その日に礼拝が終わった後「洗礼受けたいんですけれど」って言ったらみんなに驚かれて(笑)。「じゃあ学びをしましょう」ということになりまして。三ヶ月後くらいに洗礼を迎えたんです。

−ただ聖歌隊が練習をして、礼拝も始まる前で、そこで胸に迫ってきたものってなんだったんでしょう。

やっぱり神様の臨在っていうか…、なんとも言えない、世の中にはない心の平安っていうか。

−実際に何って言葉にはできなくても、その時やっぱり出会っていらっしゃるんですね。

そうですね。だから聖書を学べば学ぶぼど「あ、そうなんだ、そうなんだ。答えがある、ある」って。求めてたものが、読めば読むほど「ここにある、ここにある」って確かなものになっていくというか、全然疑いはないというか。もう本当に「その通りだな、その通りだな」と思って。

−たとえば?

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ十四章六節)ここに真理があるというか、ここに命の意味があるというか、そういうのを学びながらすごく感じたり。

「人の子は、滅んでいる者を救うために来たのです」(マタイ十八章十一節)という言葉が、「人の子」っていうのはイエス様で、「滅んでいる者」っていうのは私自身で、「あ、私が滅んでいたからイエス様が十字架にかからなきゃいけなかったんだ」っていうことが本当にわかって。

学び会だけじゃなくて、みんなで御言葉を分かち合うグループがあるんですけど、分かち合いとか祈りを通して、神様がいるんだっていうのをすごく体験させてもらったというか。

−洗礼を受けてから、お仕事はいかがですか?

病んでいる人の傍らにいることができるようになったっていうのがすごく変わりました。

−何が変わったんでしょう。

私にはその人を癒したり慰めたり励ましたりっていうことはできないです。それは変わらないんですけども、神様がその人を癒してくださるんだ、励ましてくださるんだっていうのが変わったので、神様と共にその人のそばにいて、その人がいくら苦しんで辛い思いをしていても、神様もご存知で、神様は必ずそれを癒してくださるっていうことを確信していくことができるようになったので、まったく恐れがなくなりました。

−前は自分が引き受けようとしていたから…。

そうなんです。できないと思ったんですけど、でもそこで神様がされるので。

やっぱり神様を知ることが自分の人生の喜びですし、私だけに留まってはいけない。この恵みを、私のような者が救われたんだから、全員が知ってもらわないと。神様はそれを望んでいて、私を救い出したのかなってすごく思わされています。

祈る責任とか、この福音を伝える責任をすごく感じて。でも自分でやろう、自分で実を結びたいっていう思いがあるんですけど、ただイエス様につながれば、その実は自然とぶどうの房のように結ばれていくんだなって。まだ全然実を実らせていない弱い部分もたくさんあると思うんですけれども、いつも立ち帰りながら、そういう者になれたらいいなと。

−死を目前になさる方は、ものすごく研ぎ澄まされて、本質的なところにビシッと焦点が合うでしょ。

だからごまかせないと思います。患者さんは、この人が何を思って私のところに来ているかっていうのがすごく分かっていると思うので、私もごまかせないというか。本当に日々イエス様が私の中に来ていてくださらなければ、私はそばに立てないですし。

だからただイエス様が生きてくださって、私が直接御言葉をその人に語るとかそういうのがないとしても、たとえば脈を取る手を触れたそこからイエス様の愛がその人に伝わればいいなっていう思いで脈を数えたり、眼差しですとか、語る声とか言葉とかが、イエス様の愛を伝えるものであるようにって、毎朝、拠り頼んで、神様に「助けてください」って。そうしたくても忙しい現場ですとなかなかそれができない弱さとかもありますので。でも今日も出会う人にイエス様の愛が伝わってほしいっていう思いを持って。それは患者さんだけにとどまらないで、同じ職場のスタッフもそうですし、みんなに伝わってほしいなっていう祈りをもって、毎朝出かけるんです。

−でも現実は厳しいでしょ。

そうですね、本当に。医療現場は、日本の場合は人数が圧倒的に少ないので、とても厳しいと思います。

でも神様がここに何かをしてくれるんじゃないかという期待が私はあって。だから大胆に祈りたいと思っていて。ここでもっと神様にはできる偉大な働きがきっとあるはずなので、大胆に求めたいなという思いはあります。

本当に一番ふさわしくない者がこの恵みに与ったのは、福音のために生きる以外にないと思って。神様の愛をたくさん受けて、恐ろしさも感じます。

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