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2005年7月30日放送
須藤久士
(駒師、日本基督教団目白教会会員)
インタビュアー:吉崎恵子

(クリスチャンになった)直接的な動機になったのは、父が亡くなったことです。ガンでした。もう劇的でしたね。今思い出すとあんな輝かしい時はなかったなと思うんです、自分にとってね。

亡くなってすぐに、たまたま家に聖書がポンと置いてあって。どういうものかなぁと、チラチラっとめくったんですよね。それで新約聖書から読み始めて、山上の説教を読んだ時に、お父さんは亡くなったけど、お父さんのことをわかってくれてる方があるなっていうのをすごく感じたんです。でも疑心暗鬼なんですね。宗教って俺とは遠いもんだっていうのがあったんです。でもそのうちに、父を照らしてる光っていうのは、もしかしたら僕の人生を照らしてるんじゃないかなってすごく思って。こういうものを信じている人たちがいるのかって、すごく興味が湧いて。で、聖書ってどういうものなのかなっていう思いが湧いてきて。仕事が終わると、お酒飲みながら読む時もあったし、ペラペラめくり始めて。

父が病気になった時、まず声が出なくなったんですね。で、昔からお世話になっていた耳鼻科の先生のところに行ってたんですね。でもやっぱり大きい病院に行って診てもらったほうがいい症状だって。そうしたらもうあと長くて半年って。その耳鼻科の先生はすごく信頼を置いていた先生だったので、話をして。そうしたら「お父さんは信仰をお持ちですか」って聞かれたんです。その先生が目白教会の牧師の奥さんなんです。それが契機になって、亡くなってから聖書読んでみようなんて思ったんですけど。

父が亡くなるって実感なかったんですけど、もうどんどん弱っていくんですよね。病院に顔を見に行くと、父が「僕の人生っていうのは失敗だったんじゃないかと思う」というようなことを言って。僕はその時、言葉がなかったというか。父に「お前は失敗だと思わないように、今のまんまでいいのかどうか、三年に一回くらいは振り返って、いろんな選択をしていきなさい」っていうようなことを言われて。

今思い出しても、あの時の父との交流っていうか、時間っていうのは、僕の人生にとって本当に替えがたいものだったなぁと。そういうのがあったからやっぱり、イエス様と出会った時、聖書を読んで慰められちゃった時っていうのは、時間の流れっていうのが始まりがあって終わりがある、もっと自分を大事にしようって思えたというか。自分を否定するのはやめようかなって。父を否定しなくてもいいし、父の子であったという自分っていうのを発見できたというか。ああ、お父さんのこと大好きでいいじゃないって思わされちゃって。母と一緒に目白教会に通うようになったんですけど、母には「イエス様がいるね」っていうことが言えるなっていうのがとっても慰めだし、本当だと思うし。

−でも不思議ですね。初めて読む山上の説教が、お父様をもご自分をも照らす方であるって…。

もうびっくりでしたね。本当に。なんなんだろうって自分でも不思議になっちゃいましたけどね。とっても悲しい気持ちのはずなんですけどね。父を亡くしたばっかりで。

−さっきも「あんな輝かしい時」っておっしゃったから…。

そう言うしかないって感じですね。

−でも同時に、お父様を知っていてくださる神様なら、「どうして父を私からとった?」っていう怒りも湧かなかったんですか。

そういう気持ちには不思議とならなかったですね。逆にそういう気持ちを抱いていいんだって気づいたのは信仰を告白してからかもしれないです。それより何より、入院から、自分との時間っていうのをこしらえてくれた働きっていうものに、「そうか、わかってくれてるんだ」って。父を与えてくれたし、父の子として生まれたし、自分の人生も不思議と今生きてるし、いろんなこと経験してきたし。文句を言えるような気持ちにならなかったですね。ありがたいっていうか嬉しいっていうか。だから聖書を読み始めた時点で、僕はイエス・キリストに結ばれて死ねればいいのかなっていうような気持ちになって、教会に行こうって。

教会に行く相談をした時に、その耳鼻科の先生から「教会に行ったら『ねばならぬ』っていうことがないから」っていう話はしてもらっていたんです。だから僕でも行っていいんだなという気になりましたね。

今思うと、洗礼っていうのはなんで自分が受けられたのかっていうのはわからないですけど、でもその時は「受けたい」って思ってました。本当に決めたのは、姪が遊びに来てて、「遊びに入れて」って真面目な顔して言ったんですね。その時の顔を見て、あ、僕が洗礼受けたいっていうのはこういう感じでいいんだって。「入れてくれ」と言えばいいじゃないかと。ちっちゃい子がとにかく自分も入りたいわけですよね。一緒に遊びたい。「入れて」って言ってる。それも真面目に言ってるんですよ。僕もそういうものかもしれないなと思ってですね。

−洗礼受けてからの歩みはどうですか。

見つめることができるようになったのかなとは思いますね。「苦しくない苦しくない」と言うんでなくて、「苦しい、辛い」とか。それを神に打ち明ければいいっていうのが、本当にありがたいことですね。これをありのままに言って任せようっていうふうに思いますね。だから確かになってる感じはしますよね、いろんなことが。やっぱり安心してるかな。なんとも口では言えないんですけど。聖餐にも与れるし、そこに与っている自分がいることだけは間違いないっていう。そのまんまの自分で。もう本当に繕う自分や嘘つく自分が間違いなくいる。でもそれでも自分はここにいるんだっていう。

最初先生に「教会に行きたい」っていう相談をした時にも、その時はもう父が亡くなったことの辛さから、本当に正直に逃げたいと思ってたと思うんですね。自分の仕事の辛さやいろんなものからも逃げたいって思っていて。それには格好のものなんじゃないかって聖書読んで思っていて、先生に「逃げでもいいと思うから教会行きたい」というようなことをチラッと言ったら、即「逃げではないんですよ」って真面目な顔をして否定されてしまったんですね。その言葉っていうのは洗礼受けてからのほうがジンと来ます。ああ、決して逃げではないな。頼ることや逃げることはもちろんある。でもそれで自分が終わるとかいうことではないし、人生が完結するわけでもないし、また次の日っていうのは始まるし、次の瞬間っていうのも来るし、自分っていうのを考えなきゃいけないし。そういうのもあって、僕にとっての主イエスっていうのは生きていく力っていうか。
 

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