2005年12月2日、9日放送
●谷津槇子氏●
(日本基督教団番町教会員)
インタビュアー:吉崎恵子
―ご主人が急逝されて…。 ■はい。ランニングして帰ってきたら「背中が痛い」って言うんです。九時近くになって、このままじゃ寝られそうにないからって、慶応大学病院で夜間診療しているということなので、タクシーに乗って九時半くらいには着いて。「診察室にどうぞ」って言われてね。十分かかってないと思うんですけど、看護婦さんの「あーっ!」ていう声が聞こえたんですよ。それからすぐ内科の先生が「ちょっと奥さん来てください」って。「動脈瘤破裂か心筋梗塞か、どちらかだろうと思います。今、危篤の状態です」って言われたんですよ。それですぐに牧師先生のところに電話かけたんです。そうしたら「すぐ行きますから」って駆けつけてくださったんです。それで先生ご夫妻も交えてまた内科の先生からご説明があったんです。「自力呼吸もできてない状態です」って言われるんですよね。そうしたら牧師先生の奥様が「谷津さん、こういうもの準備してきましたけど、どうしますか」って。洗礼盤を持ってきてくださってたんですよ。私はね、ずーっと夫が受洗すればいいなって祈ってたのに、いまわの時に忘れてたんです。先生ご夫妻は覚えててくださって。洗礼式をしてくださったんです。その時に十人くらいの病院のスタッフの方はそこに立ってお見守りしてくださったんですよ。終了した段階で呼吸器を外しました。病院関係者がそういうところに立ち会うことはほとんどないんだそうです。にもかかわらず立ち会ってくださったっていうのが本当に嬉しくって。横野先生(番町教会牧師)が後で葬儀の式辞でも触れてくださったんですけど、(聖書に)戸板を担ぐお話がありますよね。中風の方を、屋根をはがしてイエス様の前に連れてく。イエス様は戸板を担ぐ人の信仰を見て癒されたっていう。まさに、先生も戸板の一方を担いでくださった。奥様もそうだし、私もそうだし、それから病院のスタッフの方々も担いでくださった。そのことで夫は神様のところへ引き受けてもらったっていうふうに思うんですよ。元気なときには「死ぬ三日前に受洗する」っていうのが口癖で…。 ■亡くなりました週の日曜日に「信徒の友」が配られて。神様の摂理について書いてあって、なんとなく心に残ってたんです。「私たちはいかなる悲劇にさらされても、運命や偶然として人生を考えません」というふうに書いてあるのを目にして、亡くなったのがそれから三日目でしょ。内科の先生からいろいろ説明されて、夫は地上での生涯が終わったって思ったときに思い出したのはこれなんです。あ、神様の摂理なんだって。先生の説明を聞きながら、三日前に入った言葉が浮かんできて。私は今、納得できてないけど、でも神様の摂理なんだっていうふうに。そればっかり繰り返してた。しがみつくように。不思議ですね。 ■もう一つはね、いつも日曜日の午後、次の週の礼拝説教の看板が掲げられて、私、教会から帰るときにその説教題を見るのが習慣で。そうしたらその週は「主の山に備えあり」って。その後で夫の死がありましたでしょ。それでね、主の山に備えあり、そしてその前には神様の摂理があって…っていうふうにつながっていくと、私にしてみれば突然、底のない穴に落ちたみたいな出来事だったんですけど、前もって神様は準備し、後にはちゃんと備えてるよって言ってくださっているのが、すっごくよくわかったんです。それって理屈じゃないですね。本当に、素直にストーンって入ったんです。前からも後からも、全部そうやって用意しているからっていうことを教えられたなって思ってるんです。これは私たちが計ってできることではないですから。神様のほうは配慮してくださっているって思いました。 ■本当に神様のご計画とか摂理は、その最中にはわかりませんね、私たちには。終わってからでないとわかりにくいもんですね。それでも、そのまっただ中にあって、先に備えられてた言葉はこれ、そしてそのための経過がこれ、その後にはこういうことも用意してあったっていうことがわかってきてね。私にとっては、摂理ということが、もう少し先に確信として、「これは摂理でありました。こうなりました」っていうことが恐らくあるんだと思うんです。それは今すぐにはわかりませんけれども。ちゃんと計画どおりに神様は運んでこられた。その過程を私たちは見ているに過ぎないんだけど、その先に神様がなさろうとしていた目的っていうのは、私だけにわかるものがあるんじゃないかと思ってるんですけどね。 ―まさに神様が生きておられるっていうことをそこでずーっと経験なさっているんですね。 ■明らかにそうだって、なんか息吹のようなものさえ感じると思えます。 ―主にあっては大きな喜び、この地上においては深い悲しみが一緒にあるんですね。 ■そうですね。でもきっと、その深い悲しみのところでなければ恐らく味わえない、神様の摂理というのはね。「わかりました」とまだはっきり言いにくい。今の状態でここまでという感じですけどね。でも毎日お祈りするごとにそう思いますね。寂しいときには「寂しい!」ってお祈りするし。そのときに、あぁ慰められているなっていうのはよくよく味わいます。 ■夫はまるっきり信仰告白とかする暇がなかったんですけど、教会の方にも、神様の摂理っていうことがどういうことなのか、もういっぺん立ち帰って考えようって言ってくださる方が大勢いらっしゃって。夫は用いられていると思いました。神様がなさったことだから、神様が証しに用いてくださるんだと思って。私なんかが何年かかってもできないような証しを、一回だけして、ずるいわねぇという感じがしますけどね(笑)。大したもんですよね、神様が用いられるということは。 ■自分自身の告白というのはね、時にあいまいだったりすることもあります、私自身も。ですけど、戸板を担いでくださった方の信仰を見てくださるイエス様は、本人がいかであれ、「よし」っていうふうに言ってくださったと思うんですよ。 | |
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