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 マタイによる福音書1章1〜16節までの間に女性が4人出てくるんです。

 普通イスラエルで家系を書いていくときには、もっぱら男性の名前を書いていくものなんですね。女性の名前が入っているということは非常に異例なことなんです。だから、あえて書いてある名前なんです。

 それはタマル、ラハブ、ルツ、それから名前は出てきませんがウリヤの妻。実はユダにとってタマルは息子の嫁だったんです。タマルの夫は子供をもうけないで死んでしまった。家の血を絶やさないために彼女は遊女になりすまして舅を誘い出し、舅によって子供を得るという非常識な手段に出るんですね。

 またラハブは異邦人の娼婦だった人です。ルツはモアブの人です。モアブ人というのはイスラエルの人たちが最も嫌った民の一つで、万が一モアブ人とイスラエル人とが混血するということが起こったなら、もうその家と交わってはならない。10代後にモアブの血が薄まったらやっと再び交わってよいと言われたくらいなんです。

 11節にはバビロンへ移住させられた頃のことが出てまいります。ダビデの頃にイスラエルの国は栄えたんですけれどもソロモンの後の王は信仰を貫けない。どんどん信仰の王の家系が崩れていく。そしてついにイスラエルはバビロニアによって滅ぼされてしまうんです。

 12節以降にも名前が続きますが、聖書のどこにも出てこない、いったい誰かよく分からない人物が続いてくるんですね。

 そして16節に「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた」と。

 ヨセフは大工でした。当時のイスラエルにとっては貧しい職人ということだったのです。かつてこの家族がかのダビデ王の血筋であったことを誰も注目しなくなるようなところまで落ち込んで、もはや消え去ろうとしている瞬間に、マリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。神様はこの家族の中に独り子イエスをお送りになった。そういう書き方がマタイによる福音書のはじまりの部分なんです。

 どうして神様がそういうところに独り子をお送りになるのか。常識では考えられないことですね。それを選んだように、神様はイエス様をそこに生まれさせるということをなさった。いえ、文字通り選んだんです。

 罪に落ち込んでいく姿を、神様は拾い上げるようにして選ばれた。神様はこうしたイスラエルの罪の歴史を、ご自身の過去として背負われたということではないでしょうか。人間の弱さに満ちた家族の過去が、最後にイエス様が生まれるということによって、神様の歴史になった。あるいは神様の救いの歴史に変わるということであります。

 このことは私たち一人ひとりの命にそのまま当てはまる事柄だと思います。私たちもそれぞれ自分の過去を持ち、そこに破れや悲しみがある。しかしそういう私たちの生涯の中に神様はイエス様をくださった。

 私たちの命は、アブラハムの家族がそうであったように、神様に背く繰り返しだと言われても仕方のないものです。その私たちの生涯がイエス様のものになる。私たちの過去がイエス様によって救いをいただくための過去になる。あるいは私たちの人生は今イエス様の生涯ともなったのだと言ってよいのかもしれません。

 神様は私どもの歩みをご自身の独り子の命によって背負う、そこまで値する歩みとして受けとめてくださった。それがイエス様を与えられたということの意味だと思います。

 マタイによる福音書は一番最後に次のようなイエス様の言葉を伝えています。

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28章20節)

  私たちの生まれたときから終わりのときに至るまでの生涯の一切が、イエス様によって救いを与えられる歴史、そういうふうに神様によってはっきりと定められたのだということです。私たちの過去と未来は神様の救いの御業が行われる生涯である。このことをイエス様のお姿によって、私たちははっきりと受けとめることができるということです。

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2002年4月17日放送
第2回「救いの突入」
(マタイ1章1〜17節)