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信仰のないわたしを 横野朝彦氏
旧約聖書のこころー詩編 雨宮 慧

 「主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。』ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。『起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。』そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」(マタイ2章13〜23節)

 とても悲惨な事件の報告がなされています。これほど浅ましくも醜い事件はないと思うんです。救い主がこの世に来られたことによって、どうしてこんな悲惨なことが起こるのでしょうか。

 特に18節に非常に心が痛みます。これは旧約聖書のエレミヤ書の引用なんですが、「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」慰めてもらおうともしない嘆き、それを子を失った親の姿として描いているんです。それぞれの家庭にいた男の子が、当時の権力者によって殺される。その嘆きの深さというのはどれほどでありましょうか。それはただ一人の人が死んだという嘆きではありません。それはまさにこの世が終わる、そういう嘆きに匹敵するほど大きい、聖書はそのように考えているのだと思うのです。

 私はこの嘆きの深さを改めて思い起こしながら、マタイによる福音書が報告しているこの嘆き、その出所はいったいどこなのかということを考えてみなければならないと思っているんです。

 イスラエルは神様を信じる民です。今の私たちになぞらえて言えば、神様を信じて信仰生活をしている人たちです。その人たちがどういうふうに生きたかということを、マタイによる福音書は決して理想化することなく、厳しく見つめているんですね。クリスチャンというと、非常に正しい生活をする人だと思ってしまいますね。けれども現実にはそうではないと、聖書もはっきりと書いているのですね。ヘロデやエルサレムの人たち、つまり国の信仰の指導者であった人たちが、イエス様の存在を拒み、これを亡き者にしようとしました。神様の計画にさからうようにして歩んだのです。

 先ほどの子を失った母の嘆きを引き起こしたのは何か。それは人間の中にある救い主を拒む思い、私たち自身の中にもある神様に背く思いがこれを引き起こすのではないかと思います。

 20節でヘロデが死んだ後のことを御使いが伝えています。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」

 確かにヘロデたちは死にました。けれどもイエス様の存在を拒む者たちは決して死に絶えていない、むしろその思いは引き継がれていったと思うんです。そしてやがてその思いはイエス様を十字架にかける。そして私たち一人ひとりの中にその思いは引き継がれていったのではないかと思うんです。

 しかし聖書は、だからこの世は虚しいと言って悲観しているのではないのです。マタイによる福音書が注意深く書いていることがあります。それはしばしば引用される預言の言葉であります。たとえば「『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」(15節)あるいは「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。」(17節)あるいは「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」(23節)

 人の業、ヘロデの敵意、あるいはヘロデを恐れたヨセフらの歩み、そういうものを書きながら、その後に必ず預言者の言葉の実現ということを書いています。なぜこういうことを書くんでしょうか。それはとても大事なことを意味していると思います。人の罪の姿を記しながら、その後に一つ一つ、預言の実現ということを書いている。それはただ神様の言う通りになったということだけではありません。これら一つ一つの人間の姿に対して、神様は決してこれらを傍観しているのではないということを、マタイによる福音書は伝えようとしているのではないでしょうか。私たちの罪の現実に対して、神様は私たちをそこから救おうとして、そのために立ち上がられるのだ。それが預言者が言っていたことの神髄ではないでしょうか。このような出来事の中にも神様の救いの意志が貫かれ、生きて働いているのです。

 マタイ2章にはヘロデがどれほど激しくイエス様の命を狙い、抹殺しようとしたかということが書いてあります。ヘロデの殺意が歴史を覆っているのです。人々は嘆き、その嘆きや悲しみの強さということも書いてあります。けれども、そうした私たち人間の中にある神様に相反する思いの激しさや強さを語りながら、マタイによる福音書は、神様の救いの意志はそれよりもなお強いということを言おうとしているのです。そして神様はその人間の罪の中をかき分けるようにしながら、ご自身の意志を貫かれているということです。

 神様はこうしてイエス様の命を守られました。 しかし神様がここで本当に守られたものは何でしょうか。神様は実は、ただ独り子の命を守られたというだけじゃなかったんです。自分の独り子だから守ったというわけではありません。この独り子を通して私たち一人ひとりを救う、その神様の道筋を守られたということなのです。そのためにどれほど人の罪の心が強くとも、神様はその中をくぐり抜けながらイエス様をお守りになられました。

 この神様は私たち一人ひとりの生涯の中でも、その救いの道筋を守り通してくださる神様だと思います。私たちは自分の姿を振り返りながら、そこでどれほど深く破れてきたか、あるいは神様の意にそぐわない歩みを繰り返してきたか、そのことを思わされることがあります。でもそのような私どもの神様を離れる思い、神様に背く姿がどれほどに強いとしても、神様はその中で私ども一人ひとりを救う、その御業を成し遂げるためにこの道筋を守り通してくださるんですね。

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2002年5月8日放送
第5回「神の守り抜かれたものは?」
(マタイ2章13〜23節)