インターネットラジオ
TOP・番組FEBCとはCD Shop聖書通信講座メール教会紹介月刊誌リンク
番組表番組の聴き方
恵子の郵便ポスト 吉崎恵子
主イエス・キリスト 岩島忠彦氏
主の祈りー主イエスと歩む旅 平野克己氏
主よ、あなたが歩かれる道ならば 井幡清志氏
あなたに話したい 晴佐久昌英氏
ひとりを捜す神 広田叔弘氏
信仰のないわたしを 横野朝彦氏
旧約聖書のこころー詩編 雨宮 慧

 ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。(マタイ22章41〜46節)
 


 
「メシアとはダビデの子」。ダビデの子孫から救い主が生まれるというのは、考え方としては間違っていないでしょう。 ところがイエス様はその答えに不十分とお考えになったようです。

 ここを読むと、少しおかしいなと思われるかもしれません。「ダビデの子」と聖書もいろんなところで言っているのに、なぜイエス様はこういうふうにおっしゃるんだろうか。「ダビデの子」ではなくて「神の子」とでもお答えすればよかったんだろうか。そのように、「救い主とは誰か」ということを巡っての問答というふうにここを読むと、なかなかわからないと思うんです。私たちは、「あなたはメシア(救い主)のことをどう思うか」と問われたら、どう答えるだろうか。そのことを考えてみたいんです。

 ある方から質問を受けたことがあります。その方はずっとお寺の影響の中で育った方でしたが、キリスト教に関わる本を読んで不思議に思ったことがあるとおっしゃるんです。その本には、仏教を信じていた人が死ぬ間際に聖書の教えを聞いてキリストを信じたというケースがいっぱい書いてあったそうです。死ぬ間際というのは恐らく人間がいろんな打算を捨てて自分の人生を見つめるものだと。その時に神様を信じる者に変わるというのは不思議だと。いったいキリストの教えにはどういう秘密があるのか知りたい。そういうご質問でした。

 私はその問いに、キリスト教、聖書、あるいは自分たちの信仰の考えはこうですよということをお答えするに留まったように覚えています。自分で話をしながら、何かちゃんと答えていないなという思いを持ちながら、あまりすっきりしない思いでその会話を終わったように記憶しているんです。

 自分は結局その場で何を言おうとしていたかというと、キリスト教の人生観、あるいは死生観というものを説明しようとしていたように思うんです。そのことを思い出しながら深く反省し、はっきり、自分は間違っていたなと思うようになったんです。

 では、死を間際にした人ではなく、この自分自身はどうかと考えてみたんです。自分の洗礼に至った時のことを思い起こしてみました。あの時、「聖書の教えとはそういうことか、なるほどよくわかったぞ」と、一つの考え方や観念に目覚めて、信じる生活に至ったんだろうか。そうではなかったなと思ったんです。自分の中での理解の深まりということではなくて、神様との出会いだった!考え、学んだ先に見えてきた一つの理解ということではなくて、むしろ自分の理解が及ばないところで、神様と出会う。その出会いの経験が自分をとらえていったんだなと思ったんです。

 マタイ19章に金持ちの青年の話が出てきます。彼は「どうしたら永遠の命が得られるか」とイエス様に尋ねた。彼は、自分は永遠の命を得るために戒めを完璧に守ってきたと。また恐らく、信仰とは何か、救いとは何かについて一生懸命に勉強したんでしょう。そして自分ができる努力をすべてした。それでも「永遠の命をつかんだ」という確信が得られない。それでイエス様のところに来て「何が足りないんでしょうか」と聞いたんですね。

 その時イエス様は「財産をすべて売り払って施しをし、わたしに従いなさい」と。それはつまりこういうことじゃないでしょうか。「あなたは、自分の努力、積み重ねてきたものを全部後ろに投げ捨てて、ただわたしに従えばよい」と。イエス様に従うということは、自分の人生をイエス様の歩みと結び付けるということです。それは自分の考え方や努力や行いということではなくて、イエス様と出会う。そこに救いが見えてくる。そういう道筋ですね。

 ファリサイ派の人が「メシアはダビデの子です」と答えた。これは考え方としては正しいんです。しかし彼らは、メシアという存在に対する考え方を言っただけですね。彼らは、「救い主はダビデの子として生まれる」、そう教えられてきた。そして「メシアはダビデの子です」と答えたんですね。

 それに対してイエス様は「どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか」(43節)と。

 「霊を受ける」というのはどういうことでしょうか。それは、神様のお働きに触れるという意味です。ダビデは自分の考えや思想としてそう言ったんではなくて、神様の御心に触れる経験の中から、救い主を主と呼んでいるんだと。

 私はここを読みながら、ペトロのことを思い出しました。マタイ16章で、イエス様から「あなたがたはわたしのことをどう思うか」と尋ねられ、ペトロは「あなたは生ける神の子、キリストです」と答えました。その時にイエス様はこうおっしゃいました。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(17節)

 ファリサイ派の人たちとペトロの告白の違いがここにはっきりと現れていると思いました。「自分は救い主に出会った。この方が私を救ってくださる方だ。」それが、救い主をどうとらえるかというときのペトロの思いでありました。

 イエス様はファリサイ派に対して、「あなた方が今、本当に必要なのは、生きて働いておられる神様との出会いだ。それがなければ救い主という方は見えてこない。」そうおっしゃっているんではないでしょうか。

 「死を間近にした方々の身に何が起こったか」と問われた時、私は一生懸命にキリスト教の考え方を話そうとしました。

 今、改めて、死の間際に信仰に至った人の上に何が起こったか考えると、それは、そこで生きて働いておられる神様に出会った。神様にとらえられたのだと思うんです。そのことゆえに、人生の最期に、大きな不安の中に生きながらも、神様に出会うことによって変えられるという経験をなさったんじゃないだろうか。

 人の信念や考えや悟りが人を救うのではありません。生きて働いていらっしゃる神様が救ってくださるんです。それ以外にはありません。そして、この私にも出会ってくださる。そこに私たちの救いの確かさがあるのですね。

↑ページトップへ

番組ページへ戻る

番組ページへ戻る

2004年9月15日放送
第128回「思想や教え、考え方でなく、出会い」
(マタイ22章41〜46節)