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 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5章3節)

この山上の説教の出だしの言葉は、ずいぶん多くの人たちを困惑させてきたと思います。

 当時のイスラエルにはパリサイ派や律法学者と呼ばれる人たちがいました。彼らは一生懸命律法を守る生活をしていました。それを通して信仰をより豊かに高めていく、それが神様に近づく道なのだ、これが彼らの考え方だったと思います。

 しかし一方で、この豊かさを追及する歩みに破れてしまった人たちが大勢いたんですね。そのような人々は、自分たちは神様にはふさわしくない、とあきらめるようになっていったかもしれません。その人たちに向かってイエス様は語られたのではないでしょうか。「あなたがたは幸いだよ、心の貧しい者たちよ。」

 このイエス様のお言葉は、幸いを豊かさと結びつけてきた人間の常識から見ると、なかなかそのまま聴き留められないと思います。しかもイエス様が言う「心の貧しさ」は、とても強い言葉じゃないかと思います。この「心」という言葉は「霊」と訳せる言葉です。「霊」というのは人間の一番本質の部分を指す言葉じゃないかと思います。つまり一番深いところにおいて豊かでない人間、貧しいものを心の奥底に抱えている人間、それが今ここでイエス様がおっしゃっている心の貧しさなんです。イエス様のこの言葉は、まさに私たち自身を鋭く見抜き、呼びかけておられる言葉だと思います。

 私たちは神様の御言葉を聴きながら、よく自分のあり方を反省します。神様を忘れていることが多い、御言葉を聴くときに、あぁそうだなと思いながら、現実にはそれと裏腹な歩みを重ねてしまう、神様に対してひた向きになれない…。私たちはそういう自分の姿を見ながら「信仰が貧しい」と言ったりします。イエス様の「心の貧しい者」というお言葉を聞いた時、ひょっとして私たちは、そういう自分の信仰の弱さをイエス様に指摘されたというふうに受けとめ、私たちの心の貧しさが、私たちを神様から遠ざけていると考えることもあるのではないでしょうか。私たちの信仰がもっと豊かになれば神様に喜ばれる人間になっていける、そこに至っていない自分は貧しい信仰なんだと考え、悩むのではないでしょうか。

 「心の貧しい人々」という言葉を「神により頼む人々」とした訳があります。心の貧しさとは、自分の一番根っこのところに命の豊かさを持っていない、言葉を変えて言えば、自分を生かすものを持っていない人間、そういうことなのではないでしょうか。自分を救える力は何一つ自分の中に持っていない、ならば神様により頼む以外に、救われて生きる術を持たない人間、それこそがここでイエス様がおっしゃっている心の貧しい者の有り様ではないかと思うんです。

 そう考えた時、じゃあ私たちが普段、信仰が貧しいと考えている自分の姿とは一体なんだろうかと思いました。私たちは神様を忘れたり、神様の言葉を聴きながら、それとは違う道を選んでいってしまう、だから自分の貧しさを感じます。それは神様により頼んでいかない姿ですね。つまり神様を忘れるから心が貧しいのではなくて、自分の心の貧しさに気づかないから神様から離れていくんですね。神様を忘れたり、神様に対して鈍い私たちの姿は、自分自身の心の貧しさに気づかないでいる有り様なんですね。

 私たちは、自分は心が貧しいと言いながら、実はそうでもないところを歩んでしまっているんじゃないかと思います。イエス様は、自分の中に何も自分を生かすものがない、空っぽだ、そういう私たちの姿を示して「心が貧しい」と呼んでおられるわけです。ところが私たちは、自分の心は貧しいと言いながら、案外何かをしっかり持って生きようとするんです。もっと言えば、自分はダメだと言いながら、そのダメな自分に頼んで生きようとしているのではないでしょうか。自分がいかに心の貧しい者であるかということに本当には気づいていない私どもの姿があるんじゃないでしょうか。 それゆえにイエス様が今語っておられる「幸い」ということを本当には知り得ない、その幸いの中を歩みきれずにいる私どもの現実があるのではないでしょうか。

 ではどうすれば、イエス様がここでおっしゃっている心の貧しさに気づき、この「幸い」という呼びかけを自分のこととして知ることができるのでしょうか。ただ自分の姿を反省してみても、それは見えてこないんですね。イエス様の十字架を仰ぐ以外にない、そう私は思っています。イエス様が私たちを生かすために十字架にかかられた、このことの前にしっかりと立っていくほかに、私たちが自分の貧しさを本当の意味で知ることはできないのです。私どもが貧しさの極みを生きる者であるからこそ、その私どもを救うためにイエス様の血が流されて、肉が割かれなければならなかったんです。私たちはこのイエス様の十字架を仰ぐ時に、その事実を知らされるのだと思います。

 さらに、私たちが自分の貧しさに気づかなければ、この自分の救いがどこにあるのかも分からないのです。イエス様の十字架の前にしっかりと立った時に私たちは、自分が救われる術を自分の中に何一つ持たない自分の貧しさを知ります。しかしそこで同時に、そのような者が救われ、「幸いである」と言っていただいている事実に出会うんです。神様がこの私たちのただ中にいてくださる、私たちの貧しさを十分に満たし、救いに与る者にしてくださる、そういう神様の愛の深さに出会う主の十字架の前に立ち続けながら、私たちはこの神様の愛の深みを本当に知らされてまいりたいと思います。

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2002年7月3日放送
第13回「私たちの貧しさの正体」
(マタイ5章3節)