夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」(マタイによる福音書26章20〜25節) | |
■人間の本質を暴き出す出来事■ | |
ところが、いずれは捕らえられるはずのイエス様を、わざわざ弟子の一人が裏切り、売り渡したんです。 とらえようによっては、あれだけ大勢の人を助けていながら、わずか十二人の身内の一人の心をも治めることができないのかと思う人がいても不思議ではない。ですから教会の歴史の中で、他の弟子たちとは違い特別によこしまな考えを持ったユダがイエス様を裏切った、仕方ないというふうに辻褄合わせをしてきたということがあるんじゃないでしょうか。 しかし聖書の中にユダの裏切りが記してあるということは、何か特殊な人間がこういう大事件を引き起こしたということじゃなくて、むしろもっと人間の本質というものを暴き出して、それに関わる出来事としてイエス様の十字架を記そうとしているのではないかと思うんです。弟子が存在する意味というのはそこにあるのかもしれません。弟子たちの歩みが、人間の歩み、私たちの歩みなんです。イエス様を慕い、時に熱心に、時に愚かさをさらけ出して、イエス様に褒められたり、諭されたり、叱られたりし、そしてついにイエス様を裏切る。こうした弟子たちの姿を見ると、自分自身と重なるなと思うんです。 ユダの姿も決して例外ではないと思います。福音書は、ユダの裏切りを内緒にしておこうと思えばできた。それをわざわざ書いた。これは、弟子の姿を通して、人間とイエス様、この私たちと神様との関わりを示すこの物語が、本当に血の通った人間の姿になるようにと、そういう願いがここにあったんじゃないかと思うんです。 | |
■この私の姿と結びつく、人間の罪の姿■ | |
理由はわかりませんが、ユダの心がイエス様から離れてしまったのかもしれない。あるいは自分の願っていたイエス様と違うということを感じるにしたがって、ある種の失望が彼を支配していたのかもしれません。もちろん本当のところはわかりませんが、ユダはとにかくイエス様から離れたかったのかもしれません。 これは決して特殊な人の気持ちではないのです。イエス様を自分の人生のどこか遠くへと押しやってしまいたかった。その気持ちを非常に過激な形で果たしたのが、このユダの裏切りであったのかもしれません。 イエス様はおっしゃいました。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」この時、弟子たちが代わる代わる「まさかわたしでは」と言い出したというんです。「裏切るのは誰か。お前か。あいつか」というんじゃなくて、「わたしじゃありませんよね」と聞いたんです。 弟子たち皆が、自分の心の中にある得体の知れないものを感じていたんではないかと思います。弟子たちはイエス様を愛し、慕いながら、同時に迷ったり、本当にこれでよいんだろうかと時には疑ったかもしれない。自分がイエス様から離れてしまう可能性を百パーセント否定できない。自分で自分の行動を完全にはコントロールできないと感じていたに違いありません。 イエス様が「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」とおっしゃった時に、ユダが「まさかわたしのことでは」と言った。 しらばっくれていると思われるかもしれません。しかし私は今回ここを読みながら、ユダは本気で言ってるんじゃないかと思ったんです。 「生まれなかった方がよい」。ユダはそこまでのことを自分がしているとは思っていなかったんじゃないか。その重みや真実が見えていない。いったい自分は何をしているのかわかっていないのです。 そうとらえるなら、ユダの行為は特別な悪人の仕業というわけじゃない。人間の中にある弱さや愚かさの延長線上に、このユダの行いがあると思ったんです。つまりそれは、この私の姿と強く結びついているのです。 人間の罪の姿というのはこういうものだと思います。世の中の人皆が非難するようなことが人間の罪の姿なのではありません。むしろ目に見えない、ただちに深刻な事態に至らないような様々な私たちの過ちや弱さ、その繰り返しが、人間の罪の姿だと思います。 よく人間の営みを歯車になぞらえますね。人生の歯車、人間関係の歯車がいろんなところでずれるわけです。そのような噛み合わない姿が、人間の人生に絶えずあるんだと思います。それが人を傷つけ、自分を傷つけ、ついには死に至らしめることもある。その姿こそが人の罪だと聖書は示していると思うんです。その罪が現れているのが、このイスカリオテのユダであります。 | |
■人間の罪があらわになり、そこの十字架が■ | |
また、イエス様はユダを止めようと思えば止めることだってできたと思うんです。しかしイエス様はそれをなさいませんでした。そうするわけにはいかなかったのかもしれません。 「不幸だ」というこの言葉は、私はイエス様の悲痛な叫びのように感じるんです。ユダの裏切りを知っていても、止めるわけにいかない。どうしてもこのことが起こらなければならないからです。人間の罪が露になって、そこにイエス様の十字架が立たなければならないからです。 イエス様はユダが自分を裏切ることを知っていらっしゃった。でも止めなかった。それじゃあイエス様も同罪ということになりはしないか。 そう思った時に、むしろそこにイエス様のお心があるんじゃないかと思ったんです。ユダの罪を我が罪になさるのです。ユダはどうしてもこれをせねばならない。それが神様のご計画に定められているとするならば、ご自分もその罪を知りながら、ユダをそこに送り出す。それによって、ユダの罪なる歩みを、ご自身の歩みとなさった。 ユダは私たちの代表であり、私たちの姿をそこに見るのです。イエス様は罪の中を歩む者をどこか違う場所から眺めていて、「あなたは罪を犯した」と裁かれるのじゃなくて、ご自分もその罪の道を歩む者と一つになられた。 ユダの物語はとても重たい物語だと思います。本当に救いがたいと思う。しかしその救いがたいところから人が救われなければ、真実、命を生きていくことはできないのです。 今、イエス様がくださろうとしている救いは、その救いがたい者が救われる道だと思います。ユダの罪にご自身も連なりながら、その罪を贖うために、ユダの罪をご自身が抱え込んで十字架の上に持って行かれた。これがイエス様のくださる救いではないでしょうか。この罪ある救いがたい身が救われる。この福音を信じ、救われて歩みたいと思います。 | |
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2004年12月1、8日放送
●第139、140回「救われがたい者が救われる道」●
(マタイ26章20〜25節)