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 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」 (マタイ5章4節)

 私はこの言葉を読みながら改めて思ったことがあるんです。それは、悲しみというのはその人その人に固有のものだということなんです。この悲しみがあるからこの私の人生がある、そういうふうに言えるのではないでしょうか。そしてその悲しみは誰かに代わりに担ってもらうというわけにはいきません。私が私である以上、その悲しみを自分のものとして担っていかなければならないのです。

 また悲しみは一つとして同じものはありません。同じ場面で同じ事柄について悲しみを共にするということはあるかもしれません。でもその時でも、一人ひとりの中にある悲しみの意味は、その人その人に固有のものなんですね。

 そのような悲しみの中を生きながら、今日、私たちはこのイエス様の言葉に出会っているのです。でもその時にやはり戸惑いを覚えますね。悲しみと幸いとは相反するものだからです。なぜイエス様はこんなふうにおっしゃるんだろうか、私たちはここを読むたびにいつも思わされてきたように思うんです。

 今現在、何か悲しみを心に抱えながら生きておられる方もいらっしゃると思います。一方で、今は大きな悲しみは特にないとおっしゃる方もおられるかもしれませんね。でも今イエス様がここでおっしゃっている悲しみ、私たちが本当に向き合わなければならない悲しみは、そういう私たちの悲しいと感じる気持ちや、悲しい気持ちにさせる事柄ということでは済まないんじゃないかと思うんです。

 聖書の中に、悲しんだ人の話がいくつか出てきます。マタイ福音書19章では、ある金持ちの青年がイエス様のところにやって来て「永遠の命を得るためにはどうすればいいですか」 と聞いたんですね。イエス様は「律法を守ることだ」とお答えになった。その青年は「もう全部守ってきました。まだ何か足りないことがありますか」と聞いた。イエス様はその時に「もし完全になりたいなら、持ち物を売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」とおっしゃいました。この青年はイエス様のこの言葉を聞いたときに、悲しみながら立ち去ったと書いてあるんです。

 この人はなぜ悲しんだんでしょうか。イエス様は「永遠の命を得るためには、全てを捨ててわたしに従えばいいのだ」と教えてくださった。つまり、彼がずっと手に入れたいと願って求めていたものが今、手に入る、そういう道をイエス様ははっきりとおっしゃったんです。ところが彼は喜んだかというと、その反対でした。このイエス様の言葉に従って、全てを捨ててイエス様に付いて行くということができない自分に、今日ここで彼は気づいたのです。そして悲しみながらイエス様の前を去って行った。

 ここにあるのは、ただこのとき彼が悲しい気持ちになったということではないと思うのです。今まで永遠の命を得るために一つ一つ励んで生きてきた、それがここで挫折した、もう自分はそこまでは行けない、そういう自分の真の姿にぶつかってしまった、自分の限界を知った、そういう悲しみなんです。

 ペトロはイエス様が十字架に付けられるときに、三度「イエス様を知らない」と言いました。彼は鶏が鳴いた声を聞いたときに、外に出て激しく泣いたと聖書に書いてあるんです。その彼の悲しみの正体は一体何だったでしょうか。ペトロが自分の中にある罪を知った悲しみ、愛する人を捨てた自分に深く挫折した悲しみ、それをここで味わったと言っていいかもしれません。

 ペトロにしましても金持ちの青年にしましても、悲しい出来事に出会って悲しんでいるというよりは、自分の本質を知って悲しんでいるんです。私たちが悲しみに出会うとき、実はそういう私たち自身の中にある限界に出会わされているのかもしれません。愛する者を失う悲しみ、手にしていたものを失う悲しみ、それはもちろん喪失感であることは間違いないんですけれども、同時にこれは、自分はもはやその愛する者と共にいることができなくなった、そういう自分の限界というものにぶち当たって悲しんでいる悲しみ、そう言って間違いないと思います。私たちは悲しみに出会うときに、自分の中にある悲しむべき事実に出会わされているんじゃないでしょうか。そしてそのことを私たちは悲しむんだと思うんです。

 そう考えてみますと、私たち人間は悲しみに出会いながら生きるほかない存在なんだと思わされます。それならば本当に問題なのは、悲しみがあるかないかではなく、私たちがその悲しみとどう向き合って生きるかだと思うんです。

 私たちは大きな悲しみに出会うときに、それに向き合うというよりも、なんとか忘れようとしたり、避けようとする、あるいは自分の心の中にある悲しみを持て余したり、否定したりしてしまうんじゃないでしょうか。悲しみがこの私の人生を私の人生たらしめるならば、その悲しみと向き合って生きることができないことこそが、悲しむべき生き方になるんじゃないでしょうか。

 イエス様はおっしゃいました。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」この「慰める」と訳されている言葉は「そばに呼ぶ」という言葉なんです。イエス様はここで、悲しみを自分自身の中に抱えて生きなければならない私たちの姿をご覧になりながら、「あなたが悲しまなければならない、その現実の中にわたしも一緒にいるよ。さあ、ここで悲しみなさい。さあ、わたしと共に、そのあなたの悲しみを悲しみとしてきちんと担って生きようではないか。あなたの悲しみは、わたし自身の悲しみでもある。あなたの悲しみをわたしも悲しむのだ。」そのようにおっしゃってくださっているんじゃないでしょうか。そしてそのことが慰めなんですね。

 イエス様はここで「悲しむ人々は幸いだ。なぜなら、あなたの悲しみはなくなるからだ」とはおっしゃっていません。悲しみは常にそこにあるんです。私たちは自らの悲しみを自分の悲しみとして生き抜かなければならないと思うんです。でもそうする力があるでしょうか。そのときに神様が私たちの悲しみを共に担い、そこで励ましを与えてくださるのです。そのことを私たちが知らされたときに、私たちは悲しみの中を生きる者になれるんだと思うんです。どんなに自分の中にある悲しみが深くても、そこから目をそらしたりすることなく、悲しみの前で一人の人間としてしっかり生きていく。そういう生き方がそこで起こってくるんじゃないかと思います。

 私たちがただ一人で悲しみを担おうとするならば、その悲しみの前に立ちきれないで、目をそらしたり心を閉ざすということになってしまいます。それならば、悲しみに出会う度に私たちは自分の人生に背を向けて生きなければならないということになってしまうんですね。

 でも今イエス様の言葉を受けるときに、私たちはたとえ悲しみの中にあっても、それに背を向けずに受けとめて、神様と共にそこで悲しみながら、その歩みを生きることができるのです。この私が生きなければならない、誰も変わることのできない、そしてそれゆえにこそ私のものである人生を、私たちはイエス様と一緒に生きるようにと勧められていると思います。

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2002年7月10日放送
第14回「悲しみに背を向けないで」
(マタイ5章4節)