兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、...イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、 茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき,「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。 このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。...彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。... そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「...神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。(マタイによる福音書27章27〜42節) | |
■罪人の代表イエス■ | |
学者たちが拝み、ヘロデが恐れた人物が、いとも簡単に捕らえられ、人々にののしられて死んでいく。十字架にかかるということはまったく王様らしくない姿であります。ところが聖書は、十字架にかかったことこそ主イエスの王としての本領なのだと語っていると思います。非常に不思議な話です。 ユダヤ人とは神の民です。ユダヤ人を通して神様は世の人々を祝福なさる。そのために選び分けられた民であります。しかし彼らは信仰をまっすぐには貫けませんでした。神様に愛されているのに背く。神様の恵みを忘れる。そういうことを繰り返し、ついには滅んでいくような過ちに満ちた民。ユダヤ人は罪人の典型と言えるでしょう。イエス様がユダヤ人の王となったということは、罪人の王、罪人の代表になられたということに他なりません。神の独り子があえて罪人の王になられた。罪人の代表になって、すべての人の罪をご自分が背負ってしまう。そしてその償いを果たす。それがこの王の務めであります。 | |
■イエスの姿に見る罪人の受けるべき仕打ち■ | |
ある意味で、この人々は間違っていないと思います。彼らは、罪人とはどんなに惨めで、どんなに愚かで、どんなに軽蔑の対象になるかということを証ししている。自分を救えないことはなんと情けないことかと言っている。これは真理です。この出来事は、イエス様のお姿を通して、罪人の受けるべきものはこれだと神様が示しておられるとしか思えない場面なのです。ここに出てくる人々は、自分で自分をあざ笑っているようなものです。私たちは自分を振り返る時、その愚かさ、弱さに胸が痛みます。もちろん他人はすべてが見えませんから、誰も私のことをあざ笑ったりしないかもしれない。しかし自分ではよく分かっている。人間とはこれほどにののしられても嘲られても、それに反論できない本質を持っている。イエス様がその私たちの受ける仕打ちを、いわば代表となって、ここで受けておられるのです。 | |
■神様は、私たちの姿を問わない■ | |
私たちは罪の愚かさを嘆く。そしてその弱さを笑う。しかし神様は罪人を笑われない。神様は決してその人を侮られたり軽んじられたりはなさらないのです。むしろその人を救うために、イエス様を十字架につけておしまいになられた。ここに私たちの救いがあります。何があっても、どんな私でも、決して侮られることはない。そのような神様がここにいてくださる。私たちと共にいてくださる。そこに救いがあります。 私たちはともすると、神様の前に自分は立つ資格があるかと悩みます。そのようなことをいくら繰り返しても、神様の前に立てる日は来ないのです。破れを完全になくし、百パーセントの人間になるということはできないのです。もし私たちが自分の姿を整えることに固執するならば、人生の立つ瀬は決して見つからない。いや、ひょっとしたら、立つ瀬のない人生ということが人の深いところにある実感なのかもしれません。しかし神様は、私たちの姿を問うておられません。私たちが勝手に問うているだけです。神様は、私たちがこのままで神様の御心を受けるように招いていらっしゃる。そしてイエス様を十字架にかけておしまいになった。その神様のお心の中に、私たちの人生の立つ瀬を見い出して生きる。これこそが信仰ではないでしょうか。このありのままの自分自身をただ神様の御前に差し出して歩んでまいりたいと思います。 | |
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2005年2月16日放送
●第150回「神様は決して罪人を嘲らない」●
(マタイ27章27〜42節)