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旧約聖書のこころー詩編 雨宮 慧

 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」 (マタイ5章38〜40節)

 私たちは自分が何かされたならば仕返しをしたい気持ちが起こるものです。ところがイエス様は、そういうやり方を一切してはならないとおっしゃったんです。それだけじゃありません。さらに反対の頬も出せと言うんです。イエス様は「こういう生き方ができたら素晴らしいですねぇ」ということじゃなくて、今この言葉を聴いている私たち一人ひとりに向かって、「わたしはあなたに言う。悪人に手向かうな。右の頬を打つ者には左も出せ」とおっしゃっているのです。

 昔から、ここを読んできた人たちはずいぶん戸惑ったようです。この言葉を文字通り聞くべきなんだろうか、あるいはそうすべきではないんだろうかと。

 私は、ここでイエス様がおっしゃろうとしていることを私ども一人ひとりに向けられている言葉だと肝に銘じて、まずこの言葉をまともに、何の割引きもなく受けとめる、そこから始めなければならないと思うのです。自分とは関係のない言葉だと離れたところで読んでいても、イエス様のお心は見えてこない気がします。

 イエス様はこのようなことをおっしゃりながら、なぜそうしなきゃならないかは一切おっしゃってないんですね。だからなおさら私たちは分からないんです。 もし右の頬を打たれて、さあこっちもどうぞなんて左も出せば、相手はどんどん殴り、遂には命まで奪われるかもしれない。そんな事をするのにどんな意味があるのでしょうか。 あるいは「下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」とあります。イスラエルの律法では借金の形に上着を取ることを戒めて、どうしても取る場合も日が沈むまでには返しなさいと言うぐらいです。イエス様はその上着をも出せとおっしゃったわけです。一体なぜそんな事をしなければならないのかと誰もが思うところですね。

 人間の社会の秩序は、イエス様がおっしゃるような形では成り立っていかないんじゃないでしょうか。損害を被ったならば、泣き寝入りすることは社会の正義に反することです。被害を与えた者が償いをすべきです。今イエス様は、かえって人々の秩序が保たれないようなことをおっしゃっているんです。まともにイエス様の言うことを受け入れようとする時、私たちはイエス様の言葉の矛盾、理不尽、不合理というものが身にしみて分かってくると思うんです。

 先ほど私は、このイエス様の言葉をまともに聞くべきだと申しましたが、それは実はこのイエス様のおっしゃっていることがどれほど私たちにとって理屈に合わないことかをしっかりと感じなければならないと思っていたからなんです。どう逆立ちしてみても到底この通りにはできないという結論に達します。そのような言葉を私たち一人ひとりに対してイエス様が語っていらっしゃる、そしてそれを私たちは聞いているんです。その一つ一つの言葉を吟味すればするほど、自分の生活に当てはめていこうとすればするほど、やはりこう言いたくなります。「イエス様、どうしてもそのようにすることはできません。むしろそうすべきではないんじゃないですか?」じゃあなぜイエス様はこういうことを語られたのでしょうか。

 イエス様は「あなたがたはこうせよ」とおっしゃっているようでありながら、実はそれとは違うことを見ておられると思うんです。それは「わたしは、これをしたのだよ」と。実はこのことがイエス様の生涯を通じて語られているメッセージ、そして今イエス様がこの言葉を語りながら私たちに見せてくださろうとしている真実ではないでしょうか。私たちだったら絶対にやるべきではないと思うことを、イエス様が私たちに対してしてくださったのです。

 弟子たちはイエス様からこの言葉を聴いた時、その度外れた内容に唖然としたでしょう。そして実際彼らはイエス様のそういうお言葉を聞いただけでなく、イエス様がそのお言葉を一つ一つ歩んでいかれる姿を間近で目にしたわけです。ある時はそのイエス様の生き方を自分たちのお手本にしようと思っていたでしょう。しかし遂にイエス様が十字架におかかりになった時、彼らは挫折したのでした。誰一人、十字架に上られるイエス様の跡に従うことはできませんでした。イエス様が十字架にかかられた時、多くの人はイエス様をののしり、辱めました。そして全くいわれのない罪を着せ、イエス様を十字架へと追いやったのです。弟子たちはその時どこにいたでしょう。決してイエス様の十字架の傍らにいたわけではありませんでした。むしろイエス様を辱めて十字架に送った人々の側に身を置いたのです。

 全く罪のない者の命を奪う者たち、それはまさにここで言われている悪人じゃないでしょうか。「悪人に手向かってはならない」と言われたこの悪人、「悪人」という言葉はとてもきつい言葉ですけれども、まさにそういう人たちなんです。弟子たちは一生懸命イエス様に付いていこう、悪から遠ざかろうとしていたけれども、気が付いたらイエス様を十字架にかける側に身を置いていた。むしろここで悪人と呼ばれている側に自分たちも立っているんだということを知らされたわけです。

 弟子たちは、ここでイエス様がこのお言葉を語ってくださった時に、自分たちが悪人から何かされたらどうしようか、イエス様のお言葉を守れるだろうかと思いながら聞いたかもしれません。しかし実は自分たちが身を置いているのは、悪人から頬を打たれたり、下着を取られたりする側ではない。むしろ悪人の側に身を置いている。そのことに気づかされるのです。自分たちがイエス様に対してそういう仕打ちをしたんだ。そういう仕打ちをする側に身を置いて生きているんだ。その私たちにイエス様は何をしてくださったでしょうか。

 イエス様はここでおっしゃっておられるようなこと、こんなことをするのはおかしい、正義に反する、絶対にやるべきじゃないと思う、まさにそのことを、罪を持って生きる私たちに対してしてくださったんです。私どもがイエス様をののしる時に、神様はそのような私どもを生かすために自らを投げ出してくださったのです。

 教会では聖餐を通して主の体と血とに与ると考えています。実はこの聖餐は今日のこの御言葉の真実をよく表していると思います。私たちは神に背き、イエス様を売り渡した。その事実に対して神様が私たちに差し出してくださった答え、それが独り子イエス・キリストの体と血とであったんです。私たちの常識では到底受け入れるべきではない私どもの罪を神様は受け入れ、ご自身の御子の命、肉と血、その一切を私たちのために差し出してくださった。その命を受け取っているんではないでしょうか。

 この御言葉を通して、私どもの思いを遥かに超えた神様の愛の中身を鮮やかに知らされていると思うんです。

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2002年10月16日放送
第28回「私たちの理屈、神の愛の真実」
(マタイ5章38〜40節)