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 「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(マタイ6章13節)

この祈りはずいぶん極端な祈りだなと思います。誘惑とある程度戦いながら、そこで助けてくださいという祈りじゃないんです。最初から誘惑がまったく私たちに近づくことがないようにしてください、そんな祈りです。ずいぶん弱虫な祈りなんですね。

 誘惑が少しもない人生などというものはありませんね。それと立ち向かい、乗り越えて人間は強くなっていくと私たちは考えているんじゃないでしょうか。そのとらえ方は信仰においても当てはまるんです。神様を信じる生活の中には、やはり戦いが常にあります。神様を信じる思いと、神様を離れようとする思い。その二つが戦って信仰生活が繰り広げられていくんですね。

 ユダヤの民は律法を持っていました。この律法はある意味で誘惑や試みと戦う武器であったと思います。人間が様々な力に対抗していかに神様の心に適った生き方をするか。そのために律法が定められ、それを一つ一つ守りながら神様に喜ばれる人間として生きることを志したのだと思います。

 例えばファリサイ派と呼ばれる人たちはそういう戦いを勝ち残ってきた人たちではなかったでしょうか。そして自分たちが上げた成果を神様に評価して頂く。そこに信仰者の価値があると考えてきたんじゃないでしょうか。ですからイエス様が教えてくださった「誘惑と戦わなくていいようにしてください」という祈りをファリサイ派の人たちが聞いたなら、そんな弱気な姿は神様をがっかりさせる、そのように考えたんじゃないかと思います。

 しかし実際には、信仰の歩みは戦いを繰り広げながら破れることがあるんです。誘惑に引きずられるようにして生きてしまった、そんな人たちは一体どうなるんでしょうか。ファリサイ派の人たちは、そういう者は罪人で神様の救いの名簿から名前が落ちてしまう、そのように見ていたのですね。イエス様の教えてくださった祈りはそんなファリサイ派の考え方や生き方に真っ向から挑戦する祈りだったかもしれません。様々な誘惑に打ち勝つ力をくださいという祈りであればファリサイ派の人たちも納得したかもしれません。しかし「誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」という祈りは違います。

 私たちは、もうお手上げ状態で「神様、私たちが戦わないでいいようにしてください」と、そこまで求めてきたことがあるでしょうか。そこまで徹底した弱さの極みのような祈りをしたでしょうか。やはりそこまではしてこなかったなぁという気がするんです。そこまで求めてはいない。どちらかというと戦いを手助けしてくださいという祈りをしていることのほうが多いんじゃないかなと思うんです。自分でなんとか戦っていくことが大事。そして足りないところを神様に補っていただきながら頑張っていくのだ。もしかするとこのような姿勢というのは、罪との戦いの本当の厳しさを本当にはわかっていないということなのかもしれません。自分でも何とかやっていくことができると思っているから、これ程までに徹底した祈りをしてこなかった。

 しかし今イエス様はこの祈りを示されたんです。無力の極みという言葉が思い浮かぶような祈りなんですね。完全に戦う意欲や自信を喪失している姿と言えるかもしれません。その祈りをイエス様は祈りなさいとおっしゃったんです。

 もちろんこの世で生きる私どもの歩みに様々な戦いがあることは間違いありません。イエス様はその戦いをする必要はないということをおっしゃったのではないと思います。そこにも意味があると思います。しかしその戦いに敗れ、自らの力の無さを思い知らされることがあるんです。今イエス様は、私たちが力尽き、戦う術も気力も失せて、ただ立ちすくむ、そういう場所に立ち至った時に、なおそこでも祈りうる祈りがあるんだよと教えてくださっているんじゃないでしょうか。そしてその祈りを神様は聞いてくださると。神様はファリサイ派の人たちが考えていたようなお方ではないのですと。「誘惑を私たちに近づけないでください」。そんな無力の極みに至ったような私たちの姿を、神様は決してがっかりして御覧になるのではないんだよ。むしろそういう者の祈りをも求め、聞いてくださる神様なんですよ。そうイエス様は教えてくださったと思うんです。

 神様が私たちを愛される。そのなさり方は、私たちが予想しているよりも遥かに深く、強いのだと思います。ただ力なく横たわるしかないような私たちの姿を目に留め、そこから助けを求めるような祈りを祈れとイエス様は教えてくださいました。そのことを通して神様の愛の懐の深さを教えてくださったのです。イエス様は主の祈りを通して、私たちが祈る相手がどういうお方かということを、このような一つ一つの事を通してはっきりと示してくださっていると思います。

 私たちは様々な姿を辿りながら生きています。一人ひとり立っているところも、出会っている問題も違います。しかしその人がどういう場所に身を置いていようと、どういう弱さを携えて生きていようと、どんな破れを経験していようと、私たちの歩みの中には祈りをあきらめなければならないような場所はどこにもないのだとイエス様は教えてくださっているんです。そしてその祈りは神様によって聞かれるんだよと。私たちの必要を全てご存知の神様が私たちの姿を受けとめてくださる。このことを深く受けとめ、常にこの神様のもとに集い、祈り続ける者でありたいと思います。

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2003年1月1日放送
第40回「祈りをあきらめないで」
(マタイ6章13節)