「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」 (マタイ10章16〜23節)
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■狼の群れの中の羊 無力な存在■ | |
狼の群れの中に送り出された羊とはどういう存在か。それは無力な存在です。戦う術を持っていない。もとより狼に立ち向かっていく勇気がない。それはまさに私たちがこの世で信仰を持って生きる時に味わっていることではないでしょうか。神様を信じていない人々の前で常に胸を張って自信を持って自分の信仰を言い表し、神様のことを証しする。そういう力や言葉を明確に持っているか。否、むしろそこで悩んでいる者ではないかと思います。むしろイエス様は私たちを遣わされながら、それがいかに悩みに満ち、苦しさ、困難に満ちた生活であるか承知して下さっているということですね。しかしそれでもイエス様は「あなたがたを遣わす」とおっしゃるんです。 | |
■神様を知らせるために相手の姿に合わせる■ | |
聖書で「蛇」と出てくると、すぐに思い出すところは創世記の創造の物語です。エデンの園にいたエバを誘惑した蛇の姿。エバの気持ちを惹きつけるためにとても上手く言葉をかけています。決して「あの実を食べなさいよ」と言うのではなく、彼女の気持ちを食べたくなるように仕向けていくんです。相手の気持ちをつかむために、考えを巡らし、言葉を尽くして巧みに誘っています。 私たちが人々の前で神様のことを語り、証ししていく時に、人々の姿を深く見、その心をどうしたらとらえることができるかということに思いを巡らす。それはとても大事なことであります。イエス様を証しするということは、ある意味で臨機応変な私どもの生き方が必要になるということであります。パウロという人は、自分が向かっている相手の姿によって、その人を神様のもとへ得るために、時には自分自身のあり方を変えていくと言いました。 私たちは神様を信じていない多くの人に囲まれて生きています。その時に本当に自分の弱さ、無力さを痛感します。しかしイエス様は、そこでただ自分の信仰を大上段に構えて生きなければならないとはおっしゃっていないのです。むしろそこで相手の姿をよく見ながら、それを受け止めながら思いを巡らし、時にはパウロのように相手の姿に自分を合わせながら生きることも必要だ。人々に神様を知らせていくためにはそのような生き方が必要になる時もあるのだとおっしゃるのです。 私たちは自分の信仰をいつもはっきりと掲げられない自分の姿に出会う時に、「自分はダメだな」と思うかもしれません。しかしイエス様は、それでもいい、そういうこともありうるのだとおっしゃっておられるのではないでしょうか。理想通りには行かないこの姿にただ負い目を感じながら生きるのとは違い、もっと自分でもできる生き方、あり方を求めて歩むことに生きていってもよいのだと。 | |
■神様に祈る歩みを見失わない■ | |
マタイ福音書3章に、イエス様が洗礼を受けられた時、聖霊が鳩のようにイエス様の上に降りてくるというところがありました。神様の霊をそのまま受け止める姿、そこに鳩という言葉が使われていた。そして今日読んだところにも「あなたがたの中で父の霊が働く」とおっしゃっていた。私はここを読んでいて、鳩のような素直さとは、神様の霊が私たちの内に働いて下さる、そのことに対する素直さではないかと思ったんです。 一方にはこの世の現実があり、私たちはある意味で柔軟に自分の立場に固執せずに生きることが求められている。でもそれだけだったら自分自身を見失うかもしれない。大事なことは、神様の助け、神様の力に自分自身をゆだね、神様の力に常に願い求めていく。それは祈りと言ってもよいかもしれません。神様に祈る歩みを見失わない。その両方があって私たちはこの世でイエス様を信ずる者として人々の前に生きていくことができるのです。 | |
■私たちの現実の根底に神様の御業が流れている■ | |
これらは一見矛盾しています。最後まで耐え忍ぶということが言われた後で、逃げて行きなさいということがおっしゃられている。少なくともここを読むと、最後まで耐え忍ぶということが救われることの条件ではないということがわかります。 さらにイエス様はおっしゃいました。「はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」 この最後の言葉は、弟子たちの戦いの行く手に何が待っているかがわかるお言葉なんです。今の私たちのこの苦難、悩みや苦しみ、この世で信仰を持って生きることの厳しさ、そういう現実の中にも神様の御業が深いところを流れている。これらは神様の救いの御業が進められる、そういう歩みなんだとイエス様はおっしゃっているんです。あなたがたが今味わわなければならない現実のその根底に、神様のお考えやお働きがちゃんと流れている。そして最後にそれら一切が救いに至る。 つまりこれは、私たちが自分で全部成し遂げなければならない性質の戦いではないということなんです。私たちがこの世で歩まなければならないこの営みは、実は神様の営みでもある。イエス様ご自身が私という人間を通して救いの業を進めておられる。その業に私たちが加えられている。イエス様は「わたしはあなたがたを遣わす」とおっしゃいました。これは、「あなたがたを通してわたしが働く。あなたがたが向かい合わなければならない厳しいこの世の現実、そこに生きる人たち、その人たちの救いのためにわたしはあなた方を遣わし、あなた方を通して働くのだ。そのことを忘れてはならない」とイエス様は教えて下さっていると思います。 今、この国で、この地で、それぞれの家庭で、それぞれの交わりの中で、私たちは生きています。これはイエス様が私たちを通して救いの業をなさるための私の人生であると心に留めていただきたいなと思います。その上で改めて私たちはそれぞれの場所へと遣わされてまいりたいと思います。 | |
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2003年8月6日放送
●第70回「主に遣わされたこの生涯を信じて」●
(マタイ10章16〜23節)