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 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」 (マタイ10章34〜39節)
 

■人間関係の実体があらわにされる■


 私たちはいろいろな争い、様々な行き違いの中に身を置くことがあります。人生には常にそういう場面が付きものです。ですから私たちは、救い主がおられるならば、平和をくださいと願うのではないでしょうか。

 イエス様が「わたしは平和をもたらすために来たのではない」とおっしゃるのは、私たちの期待とずいぶん違っているわけです。実際にイエス様がもたらされる剣とはどういうことでしょうか。

 それは、人が決して同じ土台に立ちえていないということを知らされているのではないかと思います。それゆえに争いや敵対が起こる。そして平和が失われていくんです。

 これは実は、イエス様を信じることによって親しい者がいがみ合うということではなくて、イエス様が来られたことによって人間関係の実体があらわになっているに過ぎないのではないか。人の交わりが本来持っている問題がそこで暴かれているということではないか。そう思うんです。

 親しい者どうしがきちんと向き合えない、お互いの内に潜んでいる様々な思い、お互いが負っている現実に、互いに背を向けて生きるということがある。イエス様が平和ではなく剣をもたらすとおっしゃっているのは、このようなしっかりと向き合って生きることができない私たち人間の姿を、イエス様が来られてはっきりと暴いてくださるということではないでしょうか。イエス様が来られた時に、人間関係の現実がはっきりと見えてくるということではないでしょうか。
 

■自分を愛せない■


 なぜ私たちはお互いをしっかりと見つめ合って共に生きることができないんでしょうか。性格とか価値観が違うからでしょうか。

 ある方がこういうことをおっしゃっていました。「子どもが成長し、一人の人間として育っていくために何が大事か。それは自分が本当に好きになれる人と出会うことだ。そのことによって子どもは自分に自信を持ち、生きていく。それはつまり自分がこの人から本当に愛されているという経験をした時に、人はその相手を愛するようになり、そして自分自身をも愛することができるようになっていく」と。

 私はこの言葉を聞きながら、これは子どものことに限らないなと思いました。私たちが人としっかり向き合えないとすれば、それは実は自分を愛することができないからだと言ってよいのかもしれません。そこに、人間関係の持つ問題点、その根本原因があるのだと思います。

 人と人との間に敵対があるということは、自分の内に自分と敵対するものを持っている。イエス様が剣をもたらすとおっしゃったのは、イエス様が来られることによって、私たちの命の、そこにある問題が明らかにされるということではないでしょうか。
 

■「わたしは自分の命よりもあなたを愛する」■


 イエス様はさらにこうおっしゃいました。「わたしよりも父や母、息子や娘を愛する者はわたしにふさわしくない。」さらに「自分の命を得ようとする者はそれを失い、わたしのために命を失う者はそれを得るのである。」

 これは「あなた自身よりもわたしを愛さない者はわたしにふさわしくない」ということじゃないでしょうか。結局イエス様は「家族よりもわたしを愛せよ。さらにあなた自身よりもまずわたしを愛せよ」とおっしゃっているんです。このイエス様のお言葉の真意は何でしょうか。

 38節のお言葉こそ、そのイエス様の真意をよく表していると思います。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」

 私たちはその十字架を背負った先で何を見るのでしょうか。それは、イエス様の十字架。私たちの罪を背負って十字架におかかりになったイエス様のお姿を発見するんです。

 十字架の出来事は、神様から私たちに対する一つの語りかけでもあります。「わたしは自分の命よりもあなたを愛する。」神様のこの語りかけ。神様が私たち一人ひとりを何ものにも代えがたい者として愛しておられる。これが、十字架を背負ってイエス様に従う道で知らされる神様のお心であります。

 神様が、この欠けに満ち破れに満ちた私を無条件で愛してくださっている。自分の命に換えても愛し抜くとおっしゃり、そのように歩んでくださっている。そのことを、イエス様にお従いする時に私たちは知らされる。

 私たちはイエス様を愛するということによって、実は反対に、神様の私たちに注がれた愛を知らされるんです。その時、私たちは、この神様の心として、自分自身を愛する者へと造り変えられていくのです。そしてそのことを通して人との交わりにしっかりと立つ、その足場を与えられるのです。
 

■人を愛し、自らを愛するための招きの言葉■


 人生には争いがあります。すれ違いがあります。憎しみもあり、悩みもあります。人と人との関わりで私たちは破れていく。だからこそ平和が欲しいと願う。

 しかし平和は空から降ってはきません。私たちはその平和を得るために、この人生の中でやはり闘わなければならないと思います。しっかりと自分が出会う事柄と向き合って、そして人と向き合って生きていく。それが私たちの闘いです。

 イエス様は、私たちが自分の置かれたところで平和を得るための闘いを闘うために、その土台をここで示してくださっているのだと思います。「わたしがあなたを愛している。あなたの存在をかけがえのないものとして愛している。そのことの上にしっかりと立ちなさい。そこからあなたの平和に至る闘いが始められますよ。あなたが人と向き合い、人を愛するための闘いが始まるのですよ。」イエス様はこうおっしゃっているのです。

 「まずわたしを愛せよ」というイエス様のお言葉は、平和への招きの言葉であります。私たちが人を愛し、自らを愛するための、その土台を示す招きの言葉であります。

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2003年9月3日放送
第74回「主の剣が、私たちの真実を暴く」
(マタイ10章34〜39節)