片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。(マタイによる福音書12章9〜14節) | |
■ファリサイ派の熱心、それに立ち向かうイエス■ | |
イエス様のこのお考えにあえて異を唱える人はいないと思います。ファリサイ派の人たちも、神様が造られた命がどんなに大事か、十分にわかっていたはずです。その彼らが実際の場面で、一人の人間の存在を何よりも大切にして生きているか。それがこのイエス様との議論の中で浮かび上がってきているように思います。 人間が生きていく時にはたくさんの悩みがあります。時には深い孤独感にさいなまれながら生きることがある。不本意な思いにとらわれることもある。また人は誰でも大なり小なり責任や課題を負って生きています。そこでいつも胸を張って堂々と生きるということはなかなかできないのです。むしろ自分の存在や働きに対する不安や恐れ、あるいは劣等感を持って生きている。懸命に生きていてもそういう壁のようなものにぶつかることがあるんです。それが、私たちが生きる時に避けられない現実であるなと思います。 安息日はイスラエルにとって、一切働くことをやめて神様を礼拝する特別な日でした。だからその日には神様を拝む以外のことはしない。ましてや仕事は決してしない。こういう決まりになっていたんです。 会堂に入ると片手の萎えた人がいた。ファリサイ派の人々は、イエス様はあの人を治してあげるんじゃないかと思ったんでしょう。安息日には一切働いてはならないという戒めは、もちろん治療行為もしてはならないということでした。もしイエス様がその人を治してあげたなら、それは安息日の戒めを破ったことになると思って、イエス様にわざわざ聞いたんですね。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」。もちろん許されていない。うまいところを突いたなと彼らは思ったかもしれませんね。 イエス様は当然ファリサイ派の人々の作戦はおわかりになったと思います。ところが、「手を伸ばしなさい」と言って治してあげた。別にこの人が「イエス様、何とかして下さい」と言ったとは書いてありません。そんな急を要する場面ではなさそうです。でもイエス様は、まるでわざわざファリサイ派の人たちの挑発に乗るようなことをなさっている。そして結果として「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」(14節)そういうことにつながっていったのです。 私たちは福音書を読んでいて、ファリサイ派の人たちを悪役のように考えます。ファリサイ派の側から見るならば、自分たちはまことに神様を大切にしているんだ、そう思っていたはずです。その一つの姿勢として彼らは人間の側の事情を一切捨てて、とにかく安息日は神様のためにだけ用いるのだと、まじめに考えたのであります。 ところがある時イエスという人が現れて、自分たちがずっと安息日を守って生きてきたのとは違うことをやり始めた。しかもその人物が非常に影響力を持っているとなると危機感が募ったでしょう。今まで全力で守ってきた生活が崩れていくんじゃないか。だからなんとかして、あのイエスという人物の間違いを証明しなければならない。彼らは熱心な気持ちから、イエス様の働きをやめさせようと考えたのです。しかしなかなか思ったように進まないためにどんどんエスカレートして、彼を亡き者にしなければならない、そのように考えを巡らせるようになっていったと思うのです。 そういう中でここにいる手の萎えた人の姿が、ファリサイ派の人々の視界の中では背後に押しやられてしまっている感じがします。この人の手を治したら、それを理由にイエスを訴えよう。そう思っているんです。ファリサイ派の人々は今、信念に基づいて突き進んでいる。その中で、ただ一人の人間の手の状態がどうかなんていうことは小さなことなんです。一人の存在よりも優先しなければならないことがある。この社会では確かにそういうことがあるかもしれません。また手が萎えていたからといって死ぬわけではない。安息日が終わってから治せば、彼らは文句は言わないんです。「一人の人間の事情なんてことは二の次、とにかく安息日だ!」 イエス様はそれをまともに受け止められました。この手の萎えた人と関わることで、さらに妨害を受ける。それでもなぜイエス様はあえて、この手の萎えた人のために働かれるのでしょうか。ファリサイ派の言葉に正面から立ち向かわれるんでしょうか。 | |
■安息日の戒めよりも重い一人一人の救い■ | |
今イエス様は、そういう一人ひとりが負っているもの、それがいかなる時にも一番大切なことだと見て下さっているんではないでしょうか。一人の人が、小さな荷物であろうが、それを背負って生涯の一日一日を生きていく。イエス様にとってはそれがとても大きな、いや、何よりも大事な問題なんです。だからこそイエス様は、それとは違うところに正義を見ようとしているファリサイ派の言葉にあえて立ち止まり、この手の萎えた人のために働かれたのではないでしょうか。 ファリサイ派たちは、イスラエルが大事にしてきた安息日の戒めよりも重いものはない、そう主張したんです。しかしイエス様は、いや、それよりももっと重いものがあるとおっしゃっているんです。「救い」という言い方をしていいと思います。その人が今日、救われて生きる。このことがこの世のどんなことよりも大切なことだ。だからイエス様は立ち止まられます。 私たちが自分の荷物を担って生きていく。別にそれはいざという場面じゃありません。今日、この一日なんです。その一日を、私が荷を負って生きる。この歩みにイエス様は寄り添って下さる。そういうお方であります。たとえそれがご自身の死につながる歩みになるとしても、イエス様は私たちの日々に立ち止まることを最優先して下さる。イエス様が私たち一人ひとりに寄り添って下さる。その今日一日を、私たちもまた歩んでまいりたいと思います | |
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2003年10月15日放送
●第80回「ひとりの人が立ち上がることは、何よりも重い」●
(マタイ12章9〜14節)