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 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て…『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。…行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」(マタイによる福音書13章24〜30節)
 

■私たちとは違う、イエス様の眼差しの方向■


 私たちはこういう話を読むと、すぐ毒麦に目が行ってしまうのです。後で弟子たちは「毒麦のたとえを説明してください」(36節)と言いました。イエス様は「今から毒麦のたとえを話す」などとはおっしゃっていないのです。「天の国は次のようなものだ」(24節)と、天の国のたとえをおっしゃっている。でも弟子たちはそれを聞いた時、毒麦に反応した。

 私たちにもそういうところがあります。私たちを襲う負の力にことさらに恐れを感じ、それに目を奪われるということがあります。しかしその時、私たちは物事の一面しか見ていないのではないかということを、このイエス様のお言葉を聞きながら思いました。イエス様の眼差しの方向は、弟子たちや私たちとは違うなと思ったんです。

 私たちは、毒麦にたとえられる負の力に目が注がれます。その一方で、既にある良きものに対する信頼が失われているんです。だから毒麦の問題というふうに思うんです。

 人間には、不幸や災いに出会った時、何か悪い力がそこに働いているかもしれないと恐れることがあります。そしてそういう悪の力には、引かれると言いますか、影響を受けるけれども、神様の良き力が存在して、自分を支え、悪の力と戦ってくれる、そういうふうに心が傾いていかないのはなぜでしょうか。

 そもそも私たちが今このように生きていることの背後に、この命を生み出す力が働いている。そのことはもう当たり前のことになってしまっているのかもしれません。そこに神様の良き思い、自分に注がれました造り主の思いを見るということにはなかなかならないで、不幸が起こると、悪の力が自分を捕らえるかもしれないというふうに恐れるんです。

 しかし私たちは今、事実、日々を支えられて生きています。そこには、良きものを下さる神様の力が働いているのではないでしょうか。イエス様はそのことに目を注いでおられます。天の国を「ある人が良い種を畑に蒔いたことにたとえられる」(24節)とおっしゃったんです。それが前提なんです。良い力がまずそこに及んでいる。しかしそこに神に逆らう力も入ってくることがある。そういう順番なんです。

 ところが私たちは「毒麦」と聞くと、毒麦に覆われたら大変なことになる。あるいは自分が毒麦だったらどうしようかと恐れ、弟子たちのように「毒麦のたとえ」と聞いてしまうわけであります。
 

■私たちは、良い種を蒔かれた畑■


 ではイエス様はこのたとえを通して何を私たちに伝えようとして下さっているんでしょうか。誰が良い麦で誰が毒麦かということではなくて、神様のもとで生きる私たちの人生のことを教えておられるなと思います。

 私たちの生涯はどこを見渡しても豊かな良い麦で覆われているでしょうか。むしろ毒麦がいっぱい実っているように思います。イエス様がここで指摘なさっている通りの事情が、私たちの暮らしの中にあります。神様から私たちを引き離そうとする力が確かに働いていて、神様の良い種を蒔いた畑に毒麦の種を蒔く。そして実際にそれが芽を出して、目に付く。

 そうするとこの畑はもうだめなんでしょうか。私たちはそんなふうに考えることがあります。たとえば、自分の欠けや過ちを見るにつけて、それがもう自分の命全体を覆ってしまうように思うことがあるんです。そして時に、自分の存在そのものを否定してしまうことがあります。毒麦の力が強く見えるんです。

 しかしイエス様のたとえ話はそうではありません。それで畑がだめになるということではない。私たちは良い種をいっぱい蒔かれた畑だ。そのことは決して揺るがない、というイエス様の確信、あるいは神様のお心に対するイエス様の信頼、それが、このたとえ話の土台にあるものではないでしょうか。
 

■自らを裁く必要はない■


 私たちは、神様から私たちを引き離す力が芽を出しているということを経験します。そして悪の芽を早く引っこ抜いてしまわなければと思います。イエス様は、「それは今はするな。良いものまで一緒に抜いてしまうかもしれない。」そういうおっしゃり方をなさっているのです。

 これは人間の見る目の不確かさを指摘なさっていると思います。私たちは自分の歩みをいつも正しく見極め、良いことと悪いこととをちゃんと把握しているかというと、そうではないなと思います。慌てて判断して自らを裁く、そういうことを決してしてはならないとイエス様はおっしゃっていると思います。

 あなた方が自らを裁き、自らに結論を下す必要はない。刈り入れの時が来たら、あなたという存在が本当に良き収穫を実らせることができるように、神様が目を配り決着を付けて下さる。だから、その神様のもとで私たちは歩んでいけばよい。神様が、私たちの中にある罪を取り払って下さる。自分でしなくていいと、あなた方はむしろ良い種を蒔かれた畑であることを信じて生きていきなさいと、おっしゃっているのではないでしょうか。

 イエス様はこのたとえをお語りになりながら、私たちの命に心を注いで、大事にして下さっていると思いました。神様の御旨によって造られ、生かされているこの命、良き力に満ち満ちた命であります。その命が神様のもとで守りぬかれる。この生涯を、イエス様のこのお心を土台にして生きる者となりたいと思います。

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2003年12月3日放送
第87回「ひとりの人が立ち上がることは、何よりも重い」
(マタイ13章24〜30節)