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2006年1月6日放送
第10回「愛の道」

神のプロポーズへの私たちの反応


「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。(マタイ11章28〜30節)

 イエス様の口を通して語られる神様の呼びかけなんですが、愛する人へのプロポーズの言葉のようです。
「わたしのくびきは軽い。どうかわたしのもとへ来てください。」神様の愛の告白、そのことが福音であり、神の国が来たということでもあるんですね。

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1章15節)。

この「悔い改める」、「信じる」ということが神の国の福音にとって欠かせない部分になっています。なぜかというと、悔い改めて福音を信じるということは、神のプロポーズへの私たちの反応なんです。イエスは、どのような反応をとるべきかを教えておられます。いわば、我々の生きる道、愛の道を説いたと思うんです。

「わたしは、新しい掟をあなたがたに与える、わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。(ヨハネ13章34、35節)

 十字架でもミサでも洗礼でもない。愛しているならば、キリストの弟子である。これを「新しい掟」と言ってるんですね。15章を見ますとこうも言われています。

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(13節)

 新しい掟、愛ということを最も徹底させたのは、自分が大切にしている者のために命を捨てた、イエス・キリストの受難と死の行為なんです。

その後に続く言葉は「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」(14、15節)

このキリストの教えとして説かれている愛は、一般の考え方に還元できないものを持っていると思うんです。イエス・キリストの父である神に根をおいており、その御旨として愛の促しがあるからなんです。
 

イエスの教えの二重構造


 イエスの教えられたことは、父である神と、隣人愛という二つの焦点を持っています。この二つが密接に結びついていることを最もよく示している、イエスが語られたたとえ話があります。

 「神の国は王が僕たちと決算をするようなものだ。決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。」(マタイ18章23〜27節)

 一万タラントは、ある注解書によりますと小さな国の国家予算に当たるくらいです。当然返せません。ですから主人は僕を憐れに思ってゆるしてやったんです。このたとえは、神の前に人がとてつもない赦しを受けていることを述べているわけです。それは人間がとやかくできるものでもなく、神自身も納得できるものではない。けれど、だからこそ赦しである。

 そして第二幕が続きます。
「その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。…そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。」(28〜33節)

 このたとえ話の結論はここにあるわけです。つまり、第一のシーンがあったからこそ第二のシーンが重要になる。あるいは第二のシーンがなければ第一のシーンもなくなるということです。そのことが、イエスの教えの二重構造です。

 私は、イエスが説かれた教えというのは、神様の愛、それ以外に何もないと思っています。もうそれだけが一番大切なことです。それ以外ないんですけど、イエスの教えを見ていると、実はそれに基づいた具体的なこの世に生きる人間の献身的な愛の心根と言いますか、実際の行い、そういうものがなければ、その慈しみの神様の教えを聞くことはほとんど何の意味もないというふうに強調しておられます。実際に自分がそのようにならなければ、この福音は頭だけのものに終わってしまうし、本当の恵みも赦しも自分のところに来ることはないということなんです。だからこそイエスはこの第二の点に、神の教えということ以上に強調点を置いておられるんですね。
 

良きものだけを返す神 それに倣う愛の行い


 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天の国は彼らのものである。」(マタイ5章3節)

 実際にこの時代、経済的に行き詰まり、人権を侵され、自由も利かない人たちがたくさんいたわけです。そういう人たちに向かってまず「幸いである」と言うわけです。なぜならば、「天の国は彼らのものである。」
 この福音が告げられるところ、そこにおいてどのように圧迫され、命の危機に瀕し、不幸を味わっているとしても、あなた方は幸いだと述べてるんです。このことは、本当の神様からの救いがもたらされているという確信がないと言えないことですね。
 さらに言えば、実際に心が貧しく、悲しみ、柔和で、義に飢え渇き、憐れみ深く、心が清く、平和を作り出そうとした者は誰かというと、イエスご自身です。

 このような呼びかけの言葉に始まって、この山上の説教の主要テーマが現れてきます。

「あなたがたは、地の塩である。世の光である。あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思うな。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」(13〜17節)

 律法、預言者というのは神の約束すべてです。その成就がここにある。良き神の御旨が行き渡ることである。そして神の御旨が働くとは、自分の中に神様を迎え入れることであります。
 迎え入れる者が迎え入れられる者と違った心根を持っていたら迎え入れられないんです。だから必然的に自分がそういう御旨に添った心根を持ち、そう振る舞わなければいけない。これは律法の完成なわけです。

 だから「祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。」(23、24節)

 神に公式の礼拝をささげるという行為よりも、一人の兄弟との和解の方が神の御旨に適うということなんですね。逆に言えば、これが神ご自身の、人間をどれほど大切にしておられるかという証しでもあるわけです。

 この最後のところにおいて、こうした愛の掟が天におられる父に基本をおいているということが現れてきます。

 「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天におられるあなた方の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」(43〜45節)

 あなた方の天の父は、結局誰にも良いものをくださると言ってるんです。それは尋常の教えではないわけです。これがキリストの教えです。通常、良き者には良き報い、悪しき者にはそれなりの刑罰があると考えるものです。すべて良きものだけを返す神という考え方は、はっきりと教えられなければ、そうは思うことができないものです。それに倣った愛の行いというのも、他ではちょっと考えられないようなものになるわけです。
 

神の御旨は人を大切にすることに尽きる


 6 章19節以降では、まず物(富)について語られています。

「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(24節)

 そして7章1節以降で人に対する態度が語られています。

「人をさばくな。」

 7節以降は神に対する態度について語られています。

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。たたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、たたく者はあけてもらえる」。

 ひたすらまっすぐにそこに向かうということが神様に対する姿勢であると言っているわけです。そこで、神様という方がいかに良き方であるかということを、イエス様がなんとかわからせようとしているような語り方になっているわけです。

 「自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」(9〜11節)

 非常に不思議なのは12節の言葉です。

「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。」

 律法であり預言者であるということは、神の望むことすべてであると。そうしますと、神に対する態度というのが神にひたすら向かうことで、だとすれば、ひたすら人を大切にせよと。これがもう神の掟のすべてであるというふうに最後に切り返してるんです。

 神の御旨は、人間をとことん大切にするということだけなんです。それはまさにイエスご自身の姿であり、イエスの神の姿でもあるわけですね。ですから神を大切にすることは、つまるところ、人を大切にするということに尽きるということになります。
 

神の国の到来は動きであり現実の事柄


 ただただ底抜けに人を大切にしておられる慈しみの神というものに信頼をおいているからこそ、そのようになりたい、その方と一つになりたいという思いがあって、初めてそのような神の御業としての愛を生きることができる。あるいは生きようとするということなんです。そうなったときにヒューマニズムなんていう生易しい言葉ではすまないような徹底さを持っているわけです。

 神の国の到来というのは単なる教えではなく、動きであり、現実に起こってくる事柄であります。

 私たちは主の祈りを祈るとき、「父よ」とまず呼びかけて、「御国が来ますように。御心が地に行われますように」と祈るわけです。それは「まずはこの私自身の中に父なる神ご自身が来てくださるように。それを許可します」ということなんですよ。
 ただしそのためには、人が同じ思いを持って日々生きたときに初めて、自分のところに神の御心が到来しているということに気がつきます。

 イエスの教えは、一言で言えば慈しみの神と、その御心に添った生き方という二つのポイントとしてまとめることができます。しかしこの二つはどちらが先であるかわからない。

 イエス様も重要なところで「心をつくし、霊をつくし、思いをつくして、あなたの主である神を愛しなさい」(マタイ22章37節)。
 そして「第二の掟もこれに似ている。自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」(39節)と。

 「これに似ている」というのは、その二つのことは、たぶん、どちらも同じ結果を生むということなんでしょうね。

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